洛邑周辺の盆地には残暑の滓が汚泥のようにのたくっている。とうに夏の盛りは過ぎたはずなのに、肌に纏わりつく、蒸し立つような不愉快さが拭えない。ここらの気候は一年を通して多雨だ。太陽がじりじりと照りつけるような青天よりも、分厚い雲一枚が空を覆っている日のほうが多かった。咸陽のからりとした烈日がどことなく懐かしく、同時にこの都との不調和が、己が身に絡みつく。
運河の傍には水利賦役に専従させられる布衣らが、長い鋤を水底目掛けて突き刺していた。雨が降ると、川が濁る。砂防堰堤が整備されているから溢水はしないものの、水に浮くような軽い泥が絶えず流れ込み、それらが堆積してゆくと、やがて運河の底が浅くなる。舟路と水深の確保、そして水質維持の為にも、雨が上がって水位が下がったら泥の浚渫をしなければならない。これがかなりの重労働であり、じっとりとした暑さも相俟って仆れる者も多い。しかし雑役をこなす者はいくらでも補充される。たとえば城門で捉えられ、牢に繋がれた胡乱者たち。少なくとも自分は公正な目を持って任務に当たっているが、他の者はどうだろう。
掬い上げられたどろどろの土くれを傍目に、わたしは白駘と共に官衙へと駆ける。
きっと。この水土は自分には合っていないのだと思う。まるで薄幕を隔てた向こう側から見ている世界のようだった。神代の昔。女媧は土をこねて貴人を創った。蔓を振り、飛び散った泥から賤民を創った。そんな言い伝えみたいに、人の形を模した、むくつけきなにかがうごめく場所。名状し難い気味悪さが、つきまとって離れない。
中華でもっとも秀美であるはずの古都は、不遜な繍花の如く、その裏面に糊を塗って醜さを隠しているような気さえした。洛邑の外からでは違和感に気付くまい。ここに住まう者にのみ感じ取られる、繕われたあでやかさ。わずかな綻びを、わたしは確かに掴みかけている。それはきっとあの日、兄弟子が口にしかけた真実に結びつくのだろうが、しかし自分の浅薄さではまだ辿り着けないでいた。
閉門の刻はとうに過ぎているが、かろうじて空は明るい。それでも以前に比べて陽が短くなった。白駘を馬丁に任せ、その背に括り付けていた荷を背負うと、高殿へと足を踏み入れる。荷の中身は門の通行者を記録した書簡である。名、身分、証文、取り立てた租税の内容や、哨兵に引き渡した者の相貌などの情報が書かれているものだ。本来であればこれはわたしが請け負う仕事ではないが、今日ばかりは特例。というのも、昼過ぎに吏部から伝書使がやってきて、洛邑での任をみそかで切り上げる旨の辞令が出たと告げられた。急遽の決定に戸惑いながらも、離任の挨拶の為にここへ赴かなければならず、もののついでに報告書も持ってきたというわけだ。
「。少し良いか」
郡守の執務室からまかり出ると、名も知らぬ官吏の一人に名を呼ばれた。洛邑において、戸籍上では未だに呂不韋の娘であるわたしの身上は広く知れ渡っており、こうして声を掛けられることも珍しくはない。趙の寮人との縁談を断った頃は、呂不韋の臣下から顰蹙を買っていたが、彼が失墜した今となっては表立って非難されることは殆どなくなった。だからといって阿られることもなく、彼らの中のわたしは今でも亜父とまで呼んだ恩人を裏切った不義理な養女のままだ。
「はい。いかがいたしましたか?」
「ちと急用が入ってだな。客殿にこの返書を届けてはくれまいか」
「かしこまりました」
「ではくれぐれも頼んだぞ」
「その訪客とは、わたしのような下官がお目にかかっても良い方なのでしょうか?」
「ああ。ついでに膳部に寄って酒肴でも貰うといい。奴も然る者であるから貴様とはそりが合うやもしれんからのう」
見え透いた嘘を吐いて去って行く背中を、黙って見送ることしかできない。それほどまでにわたしの立場は弱かった。客を歓待する任を放棄するとはどういう了見かと、問い掛けたい気持ちをぐっとこらえて、客殿へと足を運ぶことにした。
客殿は秦の高官らが滞在する場所であり、かつて蒙毅もここに逗留していた。相手は自国の者であるからあまり気構えずとも良いだろう。粗相の無いよう、この返書を届けてすぐに下がるだけだ。しかしあの高官が客人を「然る者」と、まるで嘲弄するような口ぶりで言ったことは気懸りであるが。
言いつけ通り途中で厨房に寄って、訪客に振舞う酒肴を用意して欲しいことを伝えてから目的地へと向かう。既に陽は沈み、ほの暗い廊には等間隔に設置された灯檠の火が揺れている。階を上りしばらく進むと、闇の中から現れたのは黒い甲冑。昌平君の近衛兵が身に纏うそれであった。
――まさか客人とは先生? いや。仮にあの方が洛邑に来ようものならば、下にも置かない歓迎でもてなすはずだ。ではいったい誰が?
思い当たる人物を考えつくよりも先に、この殿でもっとも広い客間に到着したわたしは、その人物を見てあっと小さく驚きの声をあげた。綵のむしろに腰を下ろし、文机に肘をつきながら険しい顔をしていたのは李斯だった。そして入口で壁に背を預けながら控えていたのは、なんと豹司牙。近衛兵団の長を務める男だ。彼はわたしが部屋に入るなり、扉を閉ざした。ちぐはぐな組み合わせに困惑しつつ、わたしは気を取り直すべく小さく咳払いをする。
「李斯様。それから豹司牙様。ご無沙汰しております」
視界を遮る物がない広い空間に、己の声が響く。豹司牙は重厚な兜の下に潜めた涼やかな目をそっと閉じて小さい礼を返した。一方で李斯はどことなく、不機嫌な様子で顔を上げてこちらを睨めるように見つめている。まじろぎもせず。彼が険のある人物であることは昔から、それこそ呂不韋の邸に身を寄せるようになった頃から知っている。彼は出世欲や承認欲求が強く、無条件に呂不韋の養女となったわたしを毛嫌いしていた臣下のうちの一人であった。その痼は未だに残っている。わたしは呂不韋の養女という地位を、数多の食客たちが渇望したであろうその幸福を、手ずから捨てた娘であるから。しかしそれにしたって、以前に会った時よりも、不機嫌そうにしているのは何故だろうか。
不思議に思いつつも李斯の態度を気に留めないようにしながら、塞がった手を合わせるような仕草で改めて礼を述べる。
「その節はお世話になりました。お蔭様で無事に追加合格をいただきまして」
わたしは李斯を嫌ってはいない。逐客令を廃止しようとする彼の訴えが無ければ官吏になることはできなかった。気難しいこの男は苦手ではあるが、それ以上に恩を感じていた。
「なぜ貴様がここに居る」
対する李斯は手元の書簡に視線を戻すと忌々しそうに、そう吐き捨てた。
「その……所用で官衙を訪れた折に、こちらの返書を客殿へ持って行くようにと頼まれまたのです。どうしてかは存じ上げませんが」
「どうやら俺は洛邑の連中から疎ましく思われているようだからな」
「とおっしゃいますと?」
「件の奏聞書に大王様が御心を打たれ、政事の枢軸たる位を拝命することになったのだが、元呂不韋派の奴らはそれが気に食わぬらしい。くだらん」
なるほど。どうりで豹司牙みずから李斯の護衛にあたっているわけだ。本来であれば大王様やその直臣、そして主である昌平君の侍衛をつかまつる人であるから、つまり李斯はそれほどまでの栄達を遂げたということだろう。一方で華々しい地位を免黜され、遠い河南の地へと追いやられた呂不韋派の者たちからしてみれば、それまで四柱として主の威を借りていた彼が突如として大王様に阿諛したとも思しきこの現状に、憤りを感じるのも無理はない。
余計な話をしている暇は無いと言わんばかりに手元へと視線を向けられ、わたしは慌てて預かった返書を李斯に手渡す。しかし彼はそれに目を通し始めたかと思えば、すぐに閉じた。まるではじめからその内容を知っていたかのように。そして眉間に刻まれた皺を、さらにぐっと深めて、不服と言わんばかりの表情をつくってみせた。
「ときに貴様は洛邑の任を解かれる予定だと仄聞していたが」
「は、はい。そうでございますが」
鋭い三白眼が一瞬、こちらを見る。それから彼は緩慢な手つきで返書の紐を括り直しながら、静かに呟く。
「今日の昼にその辞令を受けたばかりでございます。ですが李斯様が既にご存じとは、わたしは知らぬ間に何か、大変なことをしてしまったのでしょうか?」
「ほう。何も知らぬのだな」
洛邑にやってきてまだ半年と経っていない。中央に戻る時機としては早すぎるとは感じていたが、事情があるようだ。それも李斯が知り得るほどに深刻なものが。
「やはりわけがあるのですね。よろしければ教えていただけませんか」
一介の属吏の身で、客卿に対して厚かましい態度をとっているのは承知している。しかしこの身にまつわる秘密を隠匿されているというのは気持ちがいいものではない。兇手が迫っているかもしれないのだ。それは河了貂が言っていた斉の間者。或いは呂不韋に見捨てられた亡父の元従者。はたまたどちらにも属さぬ何者か。乱世に身を投じ、亡父の轍をなぞり「自ら手を下さずに文字で人をあやめる」わたしは、ただでさえ多くの人間に付け狙われている。ならば知る権利があるだろう。
「用が済んだのならば下がれ。俺は忙しい」
だが李斯は答えをくれなかった。この男はそういう人間であった。彼は己の立場を弁えぬこちらの態度に怒っているわけではなく、そもそもわたしを嫌っているのだ。たとえかつてのように獄に下っていようとも、結果は同じであったに違いない。
しかしこちらも易々と引き下がるわけにはいかない。李斯は気が短い分、扱いやすい人物だ。少なくとも部屋の隅でこの折衝を静かに傍観している豹司牙に比べれば。
「いいえ李斯様。その逆でございましょう?」
忙しいという彼の言葉にそう切り返す。
「なんだと?」
「洛邑に赴いた理由は、呂不韋様にまみえるため。ですがそのご様子ですと、すげなく拒まれたと推察致します」
確たる証左は無い。しかしこの状況を取り巻く一つ一つの要素たちが、矛盾無く成り立つとすれば、そのような答えに辿り着くというだけ。李斯と豹司牙がわざわざ河南に赴く理由など他に無いだろう。だが会えなかった。わたしが彼に手渡した返書は、柔らかな絹に包まれた、ささくれのひとつもない上質な牘。そしてその下に隠されていた封泥に刻まれた名は紛れもなく呂不韋からのもの。咸陽からの使者の来訪を悉く拒んでいたここの封主は、自らの四柱と号し、最後まで味方であった寵臣をも一蹴した。
李斯は無言の肯定を示す。
「わたしでよろしければご協力させていただきますよ。戸籍上はあの方の娘でございますから、ご本人か、もしくは近しい人物まで話を通すことは可能でしょう。ただし、李斯様が知り得る情報をご提供いただけたらという条件で」
「貴様。調子に乗りおって。受けた恩を忘れるばかりか義理の父を利用するまで性根が腐ったか」
「利用もなにも。わたしは呂不韋様に害を為そうとしているわけではないのですから。それに恩がありながらあの方から離れたのは李斯様も同じであるかと」
豹司牙が僅かに目を見開き、感心するようにほうと息を吐く。養父の威を借ることに罪悪感は生じたが、この機を逃したくはないという気持ちが勝り、打ち砕かれた彼の自尊心に斬り込んだ。
暫くの沈黙の後、意外なことに口を開いたのは豹司牙であった。
「呂不韋の件はさておき、洛邑を離れなければならない理由に関しては知っておくべきだ」
「ならば貴様の口から説明しろ。豹司牙」
彼は李斯との短い会話を終わらせると、こちらに向き直る。
「」
「はい」
「お前の身辺警護の為に洛邑に忍ばせていた麾下が、少し前にとある間者を捕縛した」
「間者……ですか?」
豹司牙曰く、その者は確かにわたしを探っていたという。
委細を尋ねようという気力は湧かず、ふっつりと口を閉ざす。途端に膨れ上がる懼怕と共に、身体から瞬く間に熱が引いてゆく感覚がした。夏の夜。不愉快な蒸し暑さに満ちたはずの部屋で、まるで冷や水を浴びせられたかのように全身がぞわりと粟立つ。
「取り調べの末に様々なことが知れた。ひとつは呂不韋を河南に幽するきっかけを大王様に奏上した、斉の客人に通ずる人物であったということ。ふたつはその客人は武器商で、この河南や周辺国の要人に支援を行っていたこと」
その斉の客人と自分にどのような関係が? 由縁ある人物であれば一人だけ思い浮かぶが、何年も前に清算は済んだはずだ。……いいや、それよりも。河南や周辺国へ武器の支援を行っていたということはすなわち、争いを引き起こそうと、彼らを使嗾しているということだ。
「つまり秦の内乱を扇動しようとしていた?」
「その可能性が大いに高い」
そこでわたしは漸く、初夏の頃にここを訪れた兄弟子の思考に追いつくことができたのだと思う。この古都の異常さを、彼はきっと瞬時に見抜いていたのだ。呂不韋は蟄居の身。自ら客人を招くことはできない。それなのに朝から晩まで、他国の要人らが絶え間なく旧王宮を訪れていた。彼らが官職を解かれた呂不韋様に接触する用など、そうあるはずがないのに。内乱が起これば秦の国力は弱まり、魏や趙が河南の地に兵を差し向けるだろう。武器商は巨利を得られる。仇敵たちは呂不韋を担ぎ上げ、いずれ彼一人を矢面に立たせ、罪をかぶせるに違いない。これまで多くの人間を道具のように使い捨ててきた男が、力を削がれ、利用される立場に回るとは、なんとも皮肉なことだ。それにしたって。
「どうして気づくことができなかったのでしょう」
手がかりはそこらじゅうに散らばっていたはずだ。
けれども僅かな違和感すらも抱かなかった。かつて戚里の大廈は訪客が絶えず、呂不韋ほどの人ともなればそれが当然なのだと思い込んでしまっていたのだ。彼の徳は、斯様に多くの者を引き寄せる。それは今も変わらないと。はたまた本当は零落れたあの男の姿など認めたくなかったのかもしれない。
しかし臍を噛んでいる暇は残されてはいない。
「このままでは呂不韋様の御身が危険でございます! あの御方が、反乱の根源として不当な罪を着せられるかもしれない。それなのに洛邑の民は気づかない――否、そうと知りながら見て見ぬふりをしているのでしょう! 呂不韋様が御自身の立場を見誤るはずがないのです」
貴人としての沽券。女性としての価値。それらのすべてを犠牲にしてまで手を切ったはずの男。自分にとっては、とうに関係の無いひと。心の整理は充分につけたはずだった。それでもふと、思い起こすことがある。たとえ呂不韋がどんなに人道に悖る振舞いをしようとも、良心のすべてを擦り切らせていようとも――はじめからわたしを道具としてしか見ていなかったとしても。たしかにあの温かい手はこの身を救い上げてくれた。地べたに蹲り、ただ泣き喚くことしかできなかった幼い娘に、立ち上がって前に進む術を教えてくれた。
見捨てることなどできようか。
決して私情だけではない、綱紀粛正の為にも賄賂に溺れる不正な官吏たちを告発し廃することは正しい行為だ。わたしは何も間違ってなどいない。
「夜が明けたら旧王宮へ行きましょう。一刻も早く呂不韋様に報せねば」
「勝手なことをするな。軽率な行動は慎め」
「李斯様は悔しくはないのですか!」
思わず声を荒げた。普段の自分らしくもなく、気が立っている自覚はある。呂不韋のこととなるとどうしても落ち着いていられない。だがそれは李斯も同じだと信じていた。折り合いが悪いわたしたちだが、しかし呂不韋へ抱く恩義だけは決して忘れてはいないはずだと。
「……わたしが官吏を志したのは、もとはあの御方を近くでお守りするためです」
苛立ちを抑えるようにそう呟くと、ふいに、壁を隔てた向こう側でギイと低く床が軋む。
――誰かがいる。そう思うよりも先に漆黒の甲が風のように眼前を抜けていった。
「何者だ!」
豹司牙が激した口調と共に扉を開け放てば、同時にけたたましい音が耳に飛び込んできた。慌てて外の様子を窺おうと廊下に出ると、そこには陶器や青銅器がひっくり返って割れ散っている。そして遠ざかっていく足音の、振動に合わせて、それらが小さく揺れていた。
これは客殿に運ぶようにわたしが頼んでいた酒肴だ。その配膳をするはずの者が、豹司牙の声に驚いて手に持っていたものを落としたところまでは理解ができた。しかしどうして逃げる必要があったのだろうか?
「チッ。聞かれたか」
いつの間にか背後に立っていた李斯が舌打ちをした。そして。
「すぐに出るぞ」
そして何故かわたしの袖をぐいと引いている。
「もう日も落ちておりますが」
「貴様のせいでここを出て行かざるを得なくなったのだ! この馬鹿娘が!」
「わ、わたしのせい……ですか?」
「フン。いっぱしの口を利いておきながら肝心なところで間抜けとは。そもそも呂不韋が再び内乱を企てていると思しきこの状況を大王様が把握していないことに違和感を持て。誰が情報を遮っているのか? 見て見ぬふりをしている銅臭の官吏どもに他なるまい。貴様が言ったことだ。今頃あの間者がこちらの会話を密告している頃合いだろう」
「あ……」
初めて洛邑を訪れた時に、身の丈に合わぬほどの奢侈品を身に着けた多くの官吏を見たことを思い出した。地方官吏とは思えぬほどの豪勢な暮らしぶり、その財源は賄賂に他ならないと今ならば分かる。監視の目は無数にある。あの者も然り、こちらの会話を盗み聞きしていたようだ。
「やかましく呂不韋、呂不韋と騒ぎおって」
周辺国の要人から賄賂を受け取っている彼らにとって、ここ洛邑の汚濁は隠し立てなければならないもの。わたしたちの口止めをするべく、なんらかの策を打つことは間違いない。無論、話し合いなどという円満なものではないだろう。
逃げた者を追うか、一瞬、判断に迷った豹司牙であったが、李斯とわたしの非戦闘員二人を置いてこの部屋を離れるのは危険だと判断したようだ。
「これを被れ」
「ありがとうございます」
彼は重厚な斗篷を脱いで、わたしの体をすっぽりと覆うように被せる。大きな黒衣に包まれたこの身はいとも簡単に夜闇へ溶け込んだ。それから一足先に部屋を出た李斯を追ってわたしたちも駆け出した。彼らが戻ってくる前に、少しでも遠くへ行かなければならない。思考を巡らせる余裕もなく、ただ必死に進んでゆく。豹司牙が傍に居るとはいえ、己の命が脅かされている状況に心臓がはち切れてしまいそうなほどに音を上げているのが嫌でも分かった。一方で李斯は意外にも冷静さを保っているようである。こういった状況に慣れているのだろうか。客殿を抜けて築地を上る時には、時折、わたしに手を貸す素振りも見せていた。心なしか、ほんの数刻前よりも態度が柔らかくなった気がする。もっとも互いにいがみ合っていられるような状況でもないのだが。
夜の洛邑には満天の星空をそのままそっくり写し取ったような景色が広がっている。ここへ着任する前に遠くから見た、河南一帯の煌めきを何倍にも凝縮した美しい夜景だ。
遠くから聞こえる妓女の奏でる歌や楽器の響きは、呂不韋の邸に居た頃、頻繁に夜通し催されていた盛大な宴を否応なしに想起させる。離れで過ごしていたわたしのもとにも男の下品な笑いと女の甘ったるい声は届いており、その厭わしさに対する多感な時期ゆえの嫌悪感にきつく耳を塞ぎながら眠りに就くこともあった。今となっては、金と権力をほしいままにした男が息の詰まる日常を忘れ華やかな女性と色恋ごっこを嗜むことに、否定的な感情が湧くことはない。とはいえ亜父として慕っていた人物が頬を緩ませて己と同じくらいの娘に抱き着いている姿を見るのは少々気まずかったが――。
人目につかぬように光を避けて暗がりへと逃げ込んでゆく様は、さながら腐鼠のよう。追手を撒くために遠回りをしながら、辿り着いたのは一件の矮屋。中には数人の男が居る。彼らの風体はこの邑の住人そのものであるが、豹司牙への態度を見るに、おそらく諜報を担う昌平君の私兵なのだろう。
「。怪我は無いか」
「はい。豹司牙様。……ところで官衙に残してきた他の皆様方は」
「心配無用。奴らも大きな騒ぎを起こすほど馬鹿ではない。もっとも、戦闘になったところでこちらに分があるのは明らかだ」
「安心いたしました」
「明朝、従車に紛れて門外に出られるよう、陽が昇らぬうちに移動する。それまで暫し体を休めておけ」
その豹司牙の言葉に、わたしは己が置かれた状況をようやく理解した。もう今までの日常に戻ることは許されない。この邑が抱える闇に気付いてしまったから。
「白駘が――愛馬が厩舎に繋がれたままなのですが」
「無事であれば回収する。だがあの騅は目立つ。お前は念の為、別な馬で逃げた方が良いだろう」
「わかりました……あ。それと官舎に荷物がまだ」
「悠長なことを言っている場合か! 命を狙われているやもしれぬのだぞ!」
「い! ったいです李斯様」
ゴンと鈍い音を立てて降りかかった拳骨には手加減が一切無かった。切羽詰まった彼の言葉は尤もである。この期に及んで馬や荷物の話を持ち出すわたしが、呑気に見えるのは仕方が無い。しかし白駘はわたしの唯一の家族だ。官舎には亡父の形見もある。できることならば、たとえこの身に危険が迫ろうとも連れ出したいと考えるのは当然だろう。
「善処しよう。但し回収したものは偽装工作に使わせてもらう」
「偽装工作とは」
「お前の身代わりだ。……案ずるな。騎兵団の者を扮させる。赤の他人を巻き込むわけではない」
替え玉を立てるまでに昌平君や豹司牙らがわたしを守ろうとするならば、素直に従う他ないのだが、これから洛邑は、呂不韋はどうなるのだろうか。
「わたしはもうここに戻ることはできないのですか?」
「ああ。許されぬだろう」
己の無力さが憎い。官吏になっただけでは、たとえあの御方の近くに居ようとも、守るどころか会うことすらもままならない。より出世し、官吏としての地歩を築いてゆかなければ。より強い人間にならなければ――。そう密かに意を決したわたしの隣で、李斯は懐疑に満ちた眼差しで豹司牙を見つめていた。
「豹司牙。貴様も昌平君もこの洛邑の有様を知りながらなぜ看過していた」
「軍事状況を鑑みて殿が判じたまでだ」
李斯の問い掛けは静かでありながら怒りが滲んでいるように感じられた。彼の言葉を涼しい顔で正面から受け入れる豹司牙との温度差は顕著である。厳格な法治主義を説くこの男は、もとは冷血で孤独な人だ。変法というのは数多の恨みを買うから、良かれ悪しかれ法家の学者らしいと言うべきか。しかし呂不韋という契機により李斯の人格は烈しく変化する。彼は四柱の中でも殊に忠義に厚く、抱手の為ならば敵方の諜報や暗殺といった役を自ら買って出ていた。その所業は悪徳極まりないが、自分と似ている部分があるのは確かだ。わたしも李斯も、未だに呂不韋への思いは薄れていない。だからこそ洛邑の件に関しては彼と同じ考えである。私兵を忍ばせていた昌平君は間違いなく以前からこの違和感に気付いていた。ならば事態が大きくなる前に、呂不韋本人へと忠告することもできたはずだ。
だが豹司牙は極めて冷静にこちらの苛立ちを受け流すと、まるで呆れたように嘆息をひとつ吐いて、いきり立つ李斯に寸分たりとも臆することなく、黒い甲の下に潜めた眼を光らせながら静かに言い放ったのだった。
「疑義を唱えるというのならば、ひとつ言わせていただこう。呂不韋に信服していたはずの貴殿らの方が、あの男の才幹を軽んじていると」
「なんだと?」
「お、落ち着いてくださいませ」
腰を浮かせた李斯をなんとか制止しながら、必死になだめかす。しかし豹司牙の言葉は、呂不韋の御身を最も案じているという自負がある人間にとっては、到底許せるものではないだろう。わたしだって、自分より怒りが激発しているこの男が隣にいなければ平常心でいられなかったかもしれない。
「文信侯の号を廃さなかった大王様はまことに御賢明な方であられる」
豹司牙は多くを語らず、それだけを言い残すと、こちらを一瞥して去っていった。話が見えず小首を傾げるわたしの横で、李斯は低く唸り、そしてはりつめた空気を解くように沈黙を破る。
「なるほどな」
「李斯様? 何か分かったのですか」
「我々が洛邑の淪落ぶりに気付いていなかった。それが全ての理由だ」
言われてみれば。この古都の内側は長い時間をかけて食い潰されていたものの、しかし大きな騒擾などはまったく起こらず、表向きは元来の美しさを保っていたように思えた。だからこそ斉の間者が捕縛されて初めて、奸吏らの悪事に気付くことができたのだ。彼らの貪汚を統御しつつ、他国要人との円満な関係を維持することができた人物など呂不韋の他にいない。
「まさか。呂不韋様はすべて知っておられるのでしょうか」
「おそらくはな」
きっと昌平君の慧眼はそこまで見抜いていたのだろう。呂不韋は誰の傀儡でもなく、むしろ洛邑の均衡を保つために上手く立ち回っているのだと。だからこそ河南の管掌を任せつつも、李斯や豹司牙を遣わせることで、大王派の疑懼の念を払拭しようとしている。どこまでも恐ろしい人だ。そして呂不韋自身もまた。あの御方が大王様や我々のために働く義理など無いはずだから、さだめし保身のためであろうが、それでも期せずして国は救われていた。
仮に嬴政が呂不韋から相国の官位だけではなく、文信侯という号までも奪っていたのならば、今頃、ここは戦火に見舞われていたことだろう。