ここは黒羊丘と呼ばれている、趙との国境に近い地域である。洛邑から北北東へ七百里馬を走らせ河南の県を抜けた先、秦領と趙領を別つ太行山脈の西部に位置する。その名の通り鬱蒼とした低木林と五つの丘陵地から構成されるこの地は昨年、かつて蒙驁軍の副将を務めていた桓騎と独立遊軍飛信隊の活躍で趙から奪取した領土であった。
「終戦後に飛信隊から引き継いだ時はかなり酷い状態でしたよ。
起伏の無い淡々とした声でそう語るのは蒙恬率いる楽華隊の副長を務める陸仙だ。
遡ること半月ほど前。侍衛に身をやつし李斯らの従車に紛れて洛邑を去ったわたしは、太行山脈の南端を過ぎてほどなくして本隊から離脱し、少数の護衛と共にこの黒羊丘へと疾駆した。他国要人と癒着した汚官らが、自身の涜職行為が露見することを畏れて追手を放っている懸念もさることながら、そもそもわたしが洛邑での任を解かれることになった斉の間者の件もあり「もしもの身が危殆に瀕していると判ずることがあったのなら、すぐに洛邑から退かせ、居所を暫し隠すために黒羊丘へ向かわせるように」との昌平君の命が豹司牙へ下達されていたのだ。しかしさしたる理由も無しにわざわざ黒羊丘という遠地を指定するわけもなく。
「殿からの言伝だ。その場合は黒羊の監査業務を課すと」
「……かしこまりました。総司令の御下命とあらば謹んでお受けいたします」
しっかりと仕事も仰せつかった。一応こちらは新米官吏なのだが、だからといって手心を加えてくださるおつもりは無いようだ。
――。わたしたちを迎えた黒羊丘は趙侵略の要地として見事に砦化が成されていた。高い丘陵、密林地帯、そしてうねるように這う河川。それらの地の利を最大限に活かし、層一層強固な天然の要塞と化したこれらを作り上げたのは他でもない蒙恬だ。かつて軍師学校で飛びぬけて優秀な成績を収めていた彼であるが、なかんずく築城や砦化に関しては軍部の高官らも顔負けの腕を持っている。秦国で砦化の名手は誰かと問われれば、王翦将軍の次に彼の名を挙げる者も多いだろう。だからこそ昌平君は終戦後すぐに蒙恬をこの地へ据えた。それほど秦国にとって重要な土地であるからだ。そして約一年を閲し黒羊丘は数万の兵を擁する対趙の前衛地となった。
陸仙と共に陣門を抜け幾重にも張り巡らされた砦柵の内側へと足を進めれば、そこには兵営や兵糧庫が視界の奥まで幾棟となく続いていた。聞くところによると咸陽からの補給路は既に整備されており昼夜を舎かず車馬が送られてくるらしい。また水利を活かして軍需品や兵糧といった輜重を黒羊丘全域に行き渡らせることができる仕組みまで確立しているというのだから驚きだ。しかしあまりにも整然としすぎている。かつてここより南方にあった飛信隊の砦を訪れた時のことを思い出しながら、わたしは隣を歩く陸仙に、なんとなしに問うた。
「黒羊の広大で肥沃な土壌を活かして畑でも作ってしまえば少しは兵糧を賄えるのではないのでしょうか? ほら。水資源も豊富ですし」
「おや。築城や砦化の成績はまあまあ良い方だったと聞き及んでおりましたが」
「わたし、何か頓珍漢なことを言ってしまいましたか?」
「作物というものはそう簡単には育ちません。広い土地と膨大な時間を割き、収穫できるかも分からないものに手間をかけるのは非合理的です。それよりも外部から保存がきく食糧を仕入れて土地は軍備施設にあてた方が良いでしょう。ここはあくまで軍事基地ですので」
「成程。では飛信隊の砦に畑があったのは兵糧の自給自足ではなく租を収めるため……ということでしょうか」
「さすがご理解が早いですね。いくら武功を挙げようと身分が農民であるうちは租税の賦課が完全に免除されることはありませんから、恐らくはそのような目的があったのかと」
「ありがとうございます。勉強になりました」
「お役に立てたのならば何よりです。まあ殆ど受け売りですが」
やがて暮れ方の空が徐々に夜闇に呑まれ始めると、垣墙や水岸には無数の篝灯が焚かれる。その火光が赫々と燃え上がり天を焦がす眺望はおぞましいまでの絶佳である。
暫しわたしは茫とその景色を眺めていた。隣に立つ陸仙もまた閉口したまま。彼は決して委細を聞き出そうとはしなかった。六月も経たずして洛邑から遁走し、黒騎兵に扮して身を隠しながらここへとやってきたわたしを見て、その凛然とした表情を崩さぬまま淡白に「お久しぶりです」と告げただけ。それからは先のようなやりとりばかりだ。この男の無関心に見せかけた優しさは、幾度となくわたしの心を救ってくれていた。だからこそ半月余りの長旅の終点、この西丘の陣門でまず初めに彼の姿を認めた時には、心からの悦安を覚えたのだった。
「そういえば胡漸さんはどちらに?」
「別な丘の哨戒にあたっています」
「久闊の御挨拶に伺いたかったのですが」
「夜間の移動は危険です。明日以降、改めて尋ねれば良いでしょう」
「そうします。……ところで」
辺りに目を配り、わたしは低い声で陸仙に問う。
「一応お伺い致しますが、蒙恬様は御不在ですね?」
「ええ。さんが黒羊丘に来られることはお伝えしていましたが」
「分かりました。良いです。あの方がこのような辺鄙な山奥で、大人しく過ごせる性分ではないことは承知しておりますから」
わたしが黒羊丘へ向かうことは前もって鴿を飛ばして伝達していたが、ここで一年以上も退屈な生活を強いられている彼にとっては、そんな些事よりも大きな城邑へと繰り出す方がずっと楽しみであったのかもしれない。それもそうだ。彼の心を慰めてくれるのは華やかに着飾った花柳の女性たちであって、どうしたって自分のような女がそのような役を務められるわけがないのは明白なのだから。だがさほど期待はしていなかったとはいえ、いざ姿が見えないとなると、それはそれで虚しいものだ。
「冷えますから中に入りましょうか」
「はい」
洛邑を出立したのは蒸し暑さが拭えない残暑の折であったが、一帯はもうすっかり秋意に包まれていた。外気はとうに涼しさを通り越して冷たく、夜の帳が下りると、遮蔽物の無い広大な丘陵地を滑り降りる風が轟々と空高く鳴り響く。昼間の姿とは打って変わって、夜の黒羊は酷く不気味だ。山をひとつ越えた先は趙領。敵方はこの砦の造りを暴くために斥候を放っているらしく、その報告も頻々と上がっている。隊伍を組んで練り歩く哨戒兵らの、炬火に照り返る顔貌には、異常なまでの緊迫感が漂っていた。
西丘には三十棟余りの兵舎がある。とはいえにわか普請の、苫の長屋であるが、一年で拵えたにしては申し分ない。部屋は狭く十人分の窮屈な寝床に小さな武器庫が併設されていて、それが十室で一棟。昼夜交替で約六千人の兵士が起居していた。また百将以上の兵には個室が与えられており、それぞれが長屋の管理を任されている。将校にもなると更にそれの数倍は広く、辺りには重厚な帳がめぐらされているような立派な部屋で、上質な榻には氈が敷かれ、炉などの暖房具まで設けられていた。箪笥や文机など生活に必要なものは一通り揃っているようだ。兵卒らの寝所とは雲泥の差。……であるからして、陸仙に連れてこられた部屋が、彼にあてらてた居室であることはすぐに判った。
「残念ながら客房などはありませんので、今日はここを使ってください。誓って浅慮な真似は致しませんのでご安心を。まあさんがどうしても飢えた男衆に囲まれながら雑魚寝をしたいと仰るのであれば別な部屋にご案内しますが」
「う……飢え……」
勝手に押し掛けておきながら他の兵卒を差し置いてこのような良い寝床を借りるわけには――と言いかけたまさにその時に陸仙から先の言葉が飛んできた。まるで思考を読まれているかのように。わたしには彼の提案を拒むことはできなかった。そうでもなければあらぬ趣味を疑われかねないのだから。
黒鉄の小札に覆われた甲冑を脱ぐと体が宙に浮いたかのような身軽さだ。このまま柔らかな褥に沈んで、目を閉じてまどろみに身を任せてしまいたいという思いが、一瞬脳裏を過る。しかし先生が手ずから与えてくださった御諚を軽んじるわけにはいかない。わたしはもはや一門下生ではなく、丞相である彼の隷下にある。心身ともに疲弊した状態にあっても、その克己心だけはかろうじて残っていた。
「陸仙さん。お手数ではございますが、この西丘の分だけで構いませんので、穀蔵と武器庫、それから金銭の支出が記された帳簿を確認させていただきますでしょうか」
「監査ですか。大役を振られましたね」
「申し訳ございません。唐突で」
「構いませんが。……いえ、やはり今日は取り止めませんか」
陸仙はその鋭い双眸をこちらに差し向けて、しばらくして首を横に振った。
正当な理由も無く監査の延期を申し入れるなど、不正を隠蔽する猶予を欲しているも同義。普通は許されないことだ。しかし彼がたとえそのような疑いを向けられようとも、断ろうとしたその理由は、きっと洛邑からここまで寝やらずにやってきたわたしの為である。
「仕事熱心なのは結構ですが、体調を崩してしまっては元も子もありませんよ。今晩くらいは休んでは如何です」
「ここから咸陽までの中継地で再び先生の近衛兵と落ち合うことになっているのです。少なくとも五日後には発たなければならないことを考えると休む暇など」
黒羊には大きな丘陵が五つ。どう胸算用したとてひとつの丘の監査に丸一日はかかる。五日目は午時までにここを出立しなければならないと考えると、やはり時間が無い。だからといって元来の還都の日取りを変えるわけにはいかないし、任を放擲するなど以ての外だ。
文弱な己の体が既に困憊の極みにあることは誰の目から見ても明らかであろう。これから帳簿を読み、蔵に出向いて中を検める体力など残ってはいない。しかし艱苦を堪えながら精励恪勤しようとする気力の根源は、他国要人と癒着する洛邑の賤しい高官らに対する激しい嫌悪感だ。あの男たちが憎い。そして私腹を肥やすために呂不韋に反逆者の汚名を着せようと画策する汚い人間たちに、盾突くこともできなかった己の無力さもまた。
「洛邑を出てからまともに寝ていないのでしょう」
「はい」
「隈が酷いです。さっきから目も虚ろですし。仮眠ぐらいは取るべきかと」
とはいえ自分の体を少し休ませてやらなければならないことも分かっている。
「ですが少しでも横になろうものならば、正体もなく眠り込んでしまいそうで怖くて」
「よろしければ起こして差し上げますよ」
わたしは瞠目して陸仙を見つめた。だが暫し悩んでから小さくかぶりを振る。
「お気持ちは有難いのですが……。そもそもはしたない姿を見られるのは恥ずかしいと申しますか」
夫婦でもない男女が寝室を共にすることは、通念上、良くないことである。無論、陸仙が善意で申し出てくれたのは承知しているし、彼との間に強固な信頼関係が築き上げられていることも知っている。あやまたない自負もある。しかし駄目だ。むしろ彼だからこそ品に欠ける姿を見せたくないと言った方が良いのかもしれない。それがたとえどだい意味の無い振舞いであろうとも、いつだって好いた友の耳に入る自分の姿は、行い澄ました、優美なものでありたいと願うのは自然なことだろう。
しかし陸仙からしてみれば、体の良い言葉で繕ったその主張は、ただのつまらない意地に他ならないようで。
「過去にあんな酔態をさらしておきながら、いまさら純情然としたことを仰るつもりで?」
などと鋭い舌鋒を浴びせられながら眼前までぐいと顔を近づけられる。こちらを見咎めるような視線は、言外に、無益な意地を張るわたしを非難しているようだ。かつて陸仙の前で自立できぬほどに酔い潰れ、彼の腕に抱えられて褥へと運ばれた――あの未熟であった頃の過ちを引き合いに出されては、もはや弁明する余地も無い。もっとも、当時の恥ずかしさが波濤の如く押し寄せてきて、今はそれどころではないのだが。
「ああそれとも、あのとき蒙恬様にとんだ嫌疑をかけられたことを未だに気に掛けていらっしゃるとか?」
「く……件のことをまったく気に掛けていないと申し上げれば、嘘になりますが。それが理由で拒んでいるわけでは」
「さんを案じての進言でしたが、そもそも自分を信頼するに足りない人間と判じられているのであれば、詮無いことですね」
「決してそういうわけではございません。ただ……いえ。陸仙さんがそこまで強く仰るのならば、少しばかり休ませていただいた方が良いのでしょうか」
言い終わらぬうちに次々と言葉を重ねられ、いよいよ焦燥感に追い詰められて反論に窮し、渋々と諾すことにした。彼への信頼を否定してまで自分の意志を押し通すまでの気勢はもうとっくに残ってはいない。すると陸仙は、突然、今迄の執拗さが嘘であったかのようにあっさりと身を引いた。虚ろな目のままくずれるように腰を下ろしたわたしを眺める顔は、すんとしていて、そこでようやく為て遣られたのかもしれないと勘づいたのだがもう遅い。
「あ……もしかしてわたしを揶揄いましたか?」
「さあどうでしょう」
などとうそぶく彼の白々しい態度に恨めしい視線を投げつつ、ふてくされたように衾褥に入り、陸仙に背を向けてくぐまった。
「鶏鳴刻には起こしてください。必ずですよ」
語気を強めて念を押して目を閉じる。
やわらかな絹の繭に包み込まれると、ここのところ、ろくろく安眠できていなかった体は須臾にして黒い波間を揺蕩っているような心地の良い浮遊感に襲われた。人は得体の知れないものに対して恐怖を感じるとはよく聞くが、不思議なことに、このおぞましいまでに洋々とした闇には一片の惴慄も起こらない。眠りの淵に落ちる瞬間はただただ、快美だ。意識は瞬く間に呑まれ、食い潰されてゆく。思考も、感覚も、今しがたまで抱いていた感情のすべてさえも。
――。
次に目が覚めた時。視界にはこちらを覗き込む美しい男のかんばせが映っていた。幽かに肌に触れる彼の吐息はやけに生々しく。一瞬、状況がつかめずに戸惑ったが。
「……ひ……昼?」
「あ。起きた」
混濁した意識の中でゆっくりと記憶の糸を手繰ろうとしたのも束の間、すぐに昨日までの出来事がありありと蘇ってきて、わたしは勢い良く跳ね起きた。窗からは穏やかな秋の日差しが差し込んでいる。思考はすぐさま鮮明になった。肉体的な疲れも解消されている。長い間、昏々と眠ってしまっていたことが嫌でも理解できて、わたしは堪らず頭を抱えた。
「蒙恬。どうしてここに……それにわたし、こんな時間まで」
「うん。起き抜けのとろんとした君もすごく可愛い」
「なんですかいきなり! み、見ないでください!」
どうやら寝起きの間の抜けた顔を観察されていたらしい。もう何もかもが最悪だ。わたしはすぐに手早く夜着の襟元を整えて、蒙恬から視線を逸らすと、その奥の方で素知らぬ顔をしている男に向かって強く抗議した。
「陸仙さん、約束を反故にするなんてあんまりです!」
「すみません。ちょうど朝方に蒙恬様が戻られて、事情を説明したら十分に休ませるようにと言われたものですから」
「仕事……っ! 終わりそうにないのですが」
「すぐに取り掛かれるように他の丘の帳簿は回収してきましたよ。とりあえず身支度を整えられては」
人の気も知らないで――と、悠然とする男二人に恨めしげな視線を向けつつ、わたしは「水を浴びてきます」と告げてその場を去った。
蒙恬にまたすげない態度を取ってしまったことを悔やんでいたのもせいぜいその日の暮れあたりまでのことで、それからほぼ三日間は、そんなことを気に病む余裕も無いほど目まぐるしい日々であった。
わたしは黒羊中央部の山懐に抱かれた廃集落に居を移していた。あのまま何日も陸仙の部屋に居候するわけにもいかなかったからだ。ここはそれぞれの砦からほど近いという便利な立地にある。もとはこの辺りに定住していたであろう小国の民が残したものであったとみられるが、楽華隊が黒羊にやってきた時には既にもぬけの殻であったらしい。戦の禍乱から逃れる為に住処を手放したのだろうか、或いは。ともかく家屋にはまだ使えそうな生活用品が残されており、外には頑丈な垣も整備されていて、各丘への中継地の一つとして兵も駐屯しているから心強い。麓の森には虎が出るとの風聞もあったから尚のこと。
昌平君の近衛兵から借り受けた雄偉な軍馬は七百里の旅を終えた後も足場の悪い黒羊の密林を悠々と駆けた。幸い天気にも恵まれ、ここから最も遠い丘の砦であっても、半日もあれば往復できる。また監査業務も滞りなく進んでいた。各丘の輜重は秩序井然と管理されており、帳簿在庫の数値は正確で、不正などはまったくなかった。蒙恬の砦化技術が美しいと評されるのは、その外観だけではなく、こうした端々の要素におけるまで透徹さが滲んでいるからだ。
それでも仕事量は多く、夜なべして報告書を仕上げなければ出立には間に合いそうになかった。とうに陽も落ち人々が眠りに就いても、わたしは長屋の隅の衝立で仕切られた小さな部屋の中で、独り文机に向かい筆を走らせていた。随分と長いことそうしていると、とうとう手燭の火が明滅しだして、わたしは何刻かぶりに顔を上げてうんと背伸びをする。そうして油を足そうと、重い腰を上げようとしたとき。
「油ならここにあるよ」
唐突に背後から囁くような声が投げかけられた。息を呑み、背筋を強張らせながら静かに後方へと振り向くと。帳を掻き分けて姿を現した蒙恬は柔らかく笑った。美しい白皙のかんばせに、伏せた長い睫毛の影が落ちている。
「……化生の類かと思いました」
「怖がらせるつもりは無かったんだけど」
彼はわたしの隣にやってきて、いよいよ消えかけようとしていた手燭に油を注ぎ、火を点ける。それから湯の入った甕や、飯櫃などを取り出して広げた。
「食事はちゃんと摂らなきゃ。倒れたら困るのは君なんだから」
「ありがとうございます。ですが貴方ほどの方が、わたしのために下仕えの者のような真似をなさらずとも。誰か人を遣わせれば良かったのでは」
「会いに来たんだよ。それくらい察して欲しいな」
さらりとそう返され、気恥ずかしさから言葉に詰まった。誤魔化すように食んだ餅には蓬の葉が練り込まれていて、目を覚ましてくれるような強い香りが鼻腔を抜ける。すると途端に今まで忘れていた食い気が沸々と湧いてきて、わたしは咀嚼もほどほどにそれを飲み込んだ。胃腑に流し入れたという表現の方が近いかもしれない。ろくに味わうこともせず、まるで誰かにせっつかれているかのように次々と咥内にものを詰め込んでいると、蒙恬がその美しい双眸を見開きながらこちらを見ていることに気づいて、ふと我に返った。行儀のなっていないこの食べ方は、腰を据えて食事をする暇もなかった過酷な逃亡旅でいつしか染みついた癖なのであろうことを、今更ながら感づいたのだった。
「ひとまず、互いに生きて再会できて良かった」
蒙恬はわたしの無作法を嗜めない。
「わたしが黒羊に来た理由を御存知なのでしょう?」
洛邑での失態も咎めない。
わたしの身をあれだけ案じてくれた彼の願いをよそに、呂不韋がらみの面倒事に首を突っ込んだ挙句、李斯らを巻き添えにして任地から逃げる羽目になった。そんな己の身勝手さを、きっと厳しく叱るのだろうと思った。否、叱って欲しかった。やはり洛邑なんかに行くべきではなかったのだと説き伏せて、仮借なく責めて欲しかった。
「うん。まあ」
「なにも仰らないのですね」
いよいよ匙を投げられたのかもしれない、という考えが脳裏を過ったとき、わたしは己の愚蠢な本心に気付いた。大切な友の麗しい顔が悲痛に歪む様を見て満たされようとするなど、あさましいにも程がある。どろどろと蟠ったこの醜穢な感情を知られてしまったら、きっと彼の隣には居られない。猛烈な自己嫌悪に蓋をするように目を伏せると、蒙恬は慰撫するような口ぶりで優しく語りかけた。
「勘違いしないで。俺は変わらず君を大切に思っている。ただ君がここに生きている、その事実だけで十分なんだ。これ以上の何かを課すつもりはない」
「課したところで――と思われているのではないですか」
「むしろ逆だよ。君の選択はおそらく間違ってはいないから」
己が人生は無謬とは程遠いはずだ。そうでなくとも、決して肯定されるべきものではないと思っていた。多くの人の、人生を掻き乱し、狂わせた自覚があったから。
「根拠は」
疑い混じりに問い掛ける。
「そんなものはないよ。俺の直感と経験に基づく勝手な持論」
「経験?」
「うん。例えばそうだな。次の戦……先生は趙を攻めようとお考えになられているはずだ。もし件の、呂不韋と懇意にしていた趙人のもとに嫁いでいたら、君はどうなっていたと思う?」
蒙恬の言葉を咀嚼した寸刻の沈黙の後、ぞわ、と背が粟立つ。まるで大きな蟲が全身を這っているかのような、暗澹とした気味の悪い恐怖だった。知らずのうちにかつての自分が生死を分かつ選択を迫られていたと、二年越しに、ようやく認識したのだ。呂不韋の為に死ねるのかという彼の問い掛けは、まさに正鵠を射たものであった。
最後まで聞き分けの良い養女を演じ、従容として死の道に進もうとしていた自分を救い出してくれたのは紛れも無い彼である。独りでは決して、呂不韋にそむくことはできなかった。わたしは手燭の火に震える掌を翳し、肌に透けた血潮をあらためる。
「すべてを甘んじて受け入れることしかできなかったわたしに、立ち向かう勇気を与えてくださったのは蒙恬です。なので……ありがとうございます」
「面目の為に付言させてもらうけれど、俺は本気だったよ」
「……今も?」
「ううん。君に拒まれた時まで」
きっぱりと言い切った蒙恬を見て安堵した。それ以上に、胸にこごる切ない感情が、より一層重苦しく膨れ上がったような気もした。今この瞬間に、玻璃の如き美しく脆い希求は粉々に打ち砕かれた。男と女ではなくなった。初めから分かり切っていたことだ。きっと彼だってそう思っているのだろうと、分かっているはずなのに。
「けれども、昔も今も君を守りたいという心は変わらない」
どうしても、綺麗な顔で笑む貴方を憎いと思ってしまう。
受け取って欲しいものがある。蒙恬はそう言って懐から金糸があしらわれた上等な布の包みを取り出し、わたしの手にそれを握らせた。
「これは」
「遅ればせながら合格祝い」
「中身を見ても良いでしょうか」
「勿論」
困惑しつつ包みを開くと中には翡翠の佩玉が入っていた。派手好きな蒙恬の趣味とは相反して、それは余計な装飾が無い。玉と飾り紐を結びつける真鍮には僅かに、甚深的な美しさを醸し出す細緻な彫刻が施されている。
蒙恬から贈物を貰うのは初めてではなかった。以前、共に咸陽に出た時には、わたしがひとたび目を奪われた衣裳や装飾品が、いつのまにか車の積荷の中へと運び込まれているということもあった。虫に食われぬように幾月かに一度は白檀の香で燻し、夏になれば天日にさらして大事にしているそれらを、あの頃の蒙恬は何の気なしに贈ってくれたのだろうが。
わたしは再び、己の手に収まったものを見る。異性に佩玉を贈る意味を知らぬほど愚かしくはなかった。
――受け取ることはできない。わたしにはその資格が無いのだから。
そう思って突き返そうとすると、そんなわたしの考えを見抜いてか、彼は「これは笛だ」と言った。よくよく観察すると大ぶりなはずの翡翠玉は軽く、形はやや歪であり、そして不自然な穴が幾つか空いていた。これは装身具ではなく戦道具なのだと言われてしまえば、受け取りを断る由も無い。さすがに屁理屈じみた言い分だと思ったが、仕方なく貰い受けることにした。
すると一安心したらしい蒙恬はこの佩玉にまつわる話を縷々と述べ始めた。
この翡翠玉は、夷狄の地、西の果てにある于闐の地で採取されるもので、宮中への献上品にもなるほど良質なものであるという。趙領の北に走る交易路を往来する禺氏の行商人から運良く仕入れられたものを、趙領の邑にて、遊牧騎馬民・匈奴の元捕虜であった職人に加工させたそうだ。
「見立て通りだ。清廉な君によく似合う」
「あ――」
玉笛を握るわたしの手に、蒙恬の指がそっと重なる。細められた琥珀の瞳がこちらを捉える。わずかに傾げられる首。かんばせにかかる一筋の髪が、手燭の火に照り返り煌めいている。美しい男だ。まともに目を合わせることができない。
「身に着けてくれると嬉しい。いつかきっとの助けになるだろうから」
わたしが黒羊に向かっているとの報を受け、急いであつらえたのだと彼は言った。普段ならば、もののついでにお遊びになられていたのでしょうとでも抗ってみせるのだが、つくづく依怙地な自分を恥じて口を噤んだ。わたしの心に入り込もうとする蒙恬を固く拒んでしまうのは、一種の防衛反応だ。たいした人間でもないのに見栄を張って、靡かない女を演じて。貴方に嫌われた時の言い訳が欲しい。そうでもしなければ――。
「朝になったら、丘に上がって吹いてみようか」
静かに頷いて蒙恬に背を向けた。墨を磨り、細い牘に筆を走らせる。
清廉だなんて、自分とはかけ離れた言葉だ。蒙恬はわたしにそういった要素を求めているのだろうか。そうだとしたらこのままずっと本心を隠匿して生きていかねばならないのだろうか。彼への思慕の念を抑え込んで。良き理解者のフリをして。その上に成り立つ幸せなんてどうしようもなくくだらないが、そんなくだらないものにさえ縋る自分はただただ惨めだ。
ふうっと息を吐くと、白い煙が宙に立ち昇る。黒羊の地はこれまで過ごした咸陽や洛邑よりもずっと北にある。骨の髄まで凍り付いてしまいそうな毎朝の冷え込みも、五日が経ってようやく慣れた。
あれからわたしはなんとか監査報告書を書き上げ、東の空に僅かな茜色が差しはじめた頃に、蒙恬の晩酌に一杯だけ付き合ってから短い眠りについた。今は心地良いほろ酔い気分が綺麗さっぱり消えて、酒の悪いものだけが体の中に溜まっているような不快感が、一睡を終えた気怠さに重く圧し掛かっていた。
廃集落から西丘へと戻ってきたわたしたちは、黒羊一帯の眺望を楽しむことができる開けた場所へとやってきていた。未だ薄らとした靄が揺曳する、まだらに彩られた景色を眼前に据え付けて、わたしは翡翠の玉笛を唇にあてる。息を吹き込むと、辺りの雑音に簡単に掻き消されてしまうほどに弱々しい隙間風のような音が出た。何度試してもこの翡翠はささやかな掠れた音色しか奏でない。
「音曲は不得手でございまして」
昔から芸事とは相性が悪かった。呂不韋に気に入られようと召し抱えられた女たちの真似をしたこともあったが上手くはいかなかった、という過去の苦い記憶が静かに蘇る。
「少し貸して。こういうのはもっと力を抜いて吹くんだよ」
すると蒙恬はわたしの手からそっと玉笛を取り上げて、先程までわたしが咥えていた吹き口に躊躇なく自身の唇を押し当てた。面食らうわたしの耳を、唐突に、嚠喨たる笛の音が劈く。まさに視界に広がる秋空のようにどこまでも澄んだ鋭く美しい音色は、朝ぼらけの黒羊の丘々へとどろに響き渡る。
「――する時みたいに」
「え?」
くちづけ、と。妙に艶を帯びた声で、彼は囁く。
「はい。もう一回」
再び自分の手に収められた玉笛は重い。込み上げる熱と失われたはずの残響が脳髄を蕩けさせ、全身を痺れさせる。洛邑で――兄弟子の食べさしの水菓子を手渡された時は、平然といられたはず。あれとさして変わらぬことではないかと、己に言い聞かせるも、ますます寒風にさらした耳がかっと燃えるように熱を持つばかりだ。
と、ここで思わぬ助け舟が現れた。背後からこちらに近づいてくる足音に気付き、振り向くと、そこには陸仙の姿があった。
「おはよう。早いね」
「おはようございます。陸仙さん」
軽く揖をして挨拶を交わした彼は蒙恬に向かい、溜息交じりの気だるげな調子でこう述べた。
「寝所を抜け出しておられたようで。胡漸副長がたいそうおかんむりですよ。連れ戻すようにと朝から煩いので、お戻りいただきたいのですが」
「はいはい」
まったく悪びれていないような軽い調子で返事をした蒙恬は、わたしに目配せをして「またあとで」と告げて本陣の方へと去って行ってしまった。取り残されてしまい、さてどうしようかと考えを巡らせていると、陸仙が控えめにわたしの顔を覗き込んだ。同時に彼の兜にあしらわれた特徴的な三本の角の先端がこちらを向いて、反射的に少しばかり仰け反る。
「邪魔立てをしてすみません」
「そのようなことは……。何と申しますか、いつもお疲れ様です」
すると彼はわたしが手に持っている物に気付き、僅かにその鋭い双眸を瞠った。朝露を纏ったかのような瑞々しい光沢を放つなめらかな翡翠玉。湖の如く深い青色の飾り紐。真鍮の金具には細緻な螺旋の柄が施されている。日の当たる場所で改めて見ると、隅々まで意匠が凝らされた逸品であることが伺える。
「佩玉?」
「違います。これは笛です」
束の間の逡巡の後、わたしは玉笛の吹き口を優しく触れるように咥えた。
口づけと言われて思い出したのは、茅焦と交わした情欲的なそれではなかった。長い時間をかけ、ねっとりと舌を絡めとられ歯列を愛撫された、涙が出るほどに苦しかった行為よりも、どうしてか清幽な夜に落とされた儚い熱を、あの背徳をどうしても想起してしまう。
細い音が鳴った。もう少し強く息を吹き込むと、小鳥の囀りのように辺りに響いた。本陣へ戻る途中の彼の耳にも届いたかもしれない。
「それで、結局のところ好きなんですか?」
「はい?」
「秋波を送っているように見えましたので」
明け透けにそう問い掛けられ、わたしはこの男がなんとなく事情を察したらしいことを悟る。
「面倒事を嫌う貴方が他人の色恋沙汰にご興味がおありだとは思いませんでした」
「どっちつかずのままというのも気に障る性分でして」
娶嫁を断った女だ。肯定なんてできるはずがない。
「まあ。その御顔を見ればなんとなく見当がつきますけれども」
ならばわざわざ聞かないで欲しい――などとは口にもできない。しかし本人には隠し通さねばならないだけで、この感情自体は何も恥ずかしいものではないはずだ。蒙恬の麗しい見目や貴人らしからぬ明朗な人柄に惹かれ、恋心を抱いた女性は数多であろう。わたしもその中の一人になったというだけのこと。
「いつだかご忠告くださいましたよね。蒙恬様には深入りしない方が良いと。今のわたしを見て滑稽だと思われるでしょう」
「あれは邸に来たばかりの貴女があまりにも初心で純粋な人に見えたので戯言に絆されぬようにと、ただの親切心ですよ。ですがさんは甘言に弄されるような人ではなく、むしろ蒙恬様の心を揺るがしてしまうほどに芯がある、したたかな女性でした。まあ芯があるどころか、鉄の芯が斜めにぶっ刺さってるような感じと言ったほうがしっくりきますけど」
「鉄……?」
「そこも引っ括めてさんの良さです」
どことなく謗りを受けているような言い回しの真意を捉えるべく首を傾げながら考えを巡らせていると、遠くから楽華の兵卒のひとりが早足でこちらに駆けてきた。
「御二方。朝餉の支度ができましたよ」
その言葉に小さく頷き、では行きましょうか、とまるではぐらかすように背を向けて歩き出す陸仙。わたしは玉笛を帯に結び付けて下げ佩くと、彼らの後を追った。