浮世夢の如し

  二十五.はるけき残照・前編

※閲覧注意

 朔日の朝賀儀を終え正殿をまかり出る百官の人波に、ひときわ高貴な藤色の錦繍を見つけたわたしは足早にその姿を追った。
「先生!」
 男性ばかりのこの場所では、女の声ぶりは良くも悪くもよく通る。衆目を浴びながらも人の流れをさかしまに進み、先生と呼び慕うその人物、右丞相・昌平君のもとへ慌てて駆け寄ると、涼やかな瞳がこちらにやおら差し向けられた。
 ――私の元につかぬか。個人的な申し入れだ。
 その言葉に対する明確な返事を今日この時までついぞ持ち合わせぬまま。しかし思い悩むこの心の裡を正直に吐露すれば、きっと昌平君という人間はわたしの意を酌み、然るべき道に導いてくださるだろうと踏んでいた。
「いま、暫しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。先日の件で」
 恭しく揖をして声を潜めつつそう述べると、昌平君は自身の麾下に目配せをした。介億や豹司牙をはじめとした股肱の御歴々は無言裡に主の意を理解し、静かに去ってゆく。
「場所を変えるか」
「恐れ入ります」
 数歩、距離を置いて師の背を追った。ふと視線を傍らに向けると、白雲たなびく蒼穹が果てしなく広がっている。眼下の城邑に住まう人々の姿は、もはや肉眼では拾いきれないほどに小さい。ここは秦という大国のうち、もっとも天に近く作り上げられた建造物の、その頂端。限られた人間のみが足を踏み入れることを許される場所。
 十年前。雨の晩。温もりを喪った父の、骸に触れた。それからずっと不肖なこの身にただ力を欲した。意義を欲した。いつか標を照らしてくれた老雄の教えに倣い、わたしは漸くこの尊き絶巓に登り詰めた。ここに立てばすべてが報われると信じて疑わなかった。
 しかしどうだ。
 壮観な眺めであることは言うに及ばず。ただ思い焦がれたこの景色に、心が打ち震えるほどの感動は無い。幾年と追い求めていた、官吏として身を立てる大望は、亡父や蒙驁への手向けであったというのが実のところかもしれないと思った。きっとわたしはそのために少しずつ自我を捻じ曲げ、惰性を剥ぎ取り、空疎な理想像に縋って生きてきた。
 憧れとは遠くにあるほど美しく見えるものだ。かつて咸陽の負郭から仰ぎ見たこの高殿は確かに、厳かで美しかった。
「……」
 遠くを一羽の鳥が悠々と飛んでいる。
 何処かへと離れ去るあの鳥にとって、この空は途次にすぎない。わたしにとってもまた、そうなのだろう。ならば真に己が求めるものは、この胸を充たしてくれるものは、いったい。
 今は何も分からない。ゆえに何もかもを置き去りにして、濫觴へ遡ろうとしているのかもしれない。河南へ。かつて亜父と欽慕した男のもとへ。
 群衆から程良く距離を取ったあたりで、昌平君が歩を止めた。周囲は森閑とし、目に見えぬ帳が二人を覆っているかのような緊迫感に包まれる。こちらを振り返った昌平君から音も無く差し向けられた、瞳は犀利で。端的に諾否を陳べるよう暗に促されているような、はたまたわたしの答えなどとうに見透かした上で心底を見定めようとしていると錯覚するような、無言の圧が刃となって肌に刺さる。
 わたしは意を決して重い口を開いた。
「斉の一件で、思い悩んでおりました」
 思いがけずこの身に降りかかった、元夫との邂逅。そのすべては秦軍の勝利のために作り上げられた舞台であった。敢えてわたしになにも知らせず茅焦が憐れみを差し向けてくれるように仕向けた、そこまで忽せにせず事にあたる姿勢は、軍部を統べる者として戦の道理にかなった行為。恨みはない。不憫な目に遭ったことを嘆くほど、わたしも幼くはないのだ。ただ、己の有り様を少しでも疑ってしまった。この方のために満腔の忠誠を捧げることが、はたして自分が望むべきものへと繋がり得るのかと。
 さしずめ、面倒な女だ。欲望や欺瞞に染まった世の俗悪さの中に、何者にも穢すことができぬ崇高な光を追い求めている。滑稽な幻想にすがる様はまるで無知蒙昧な、愚かな子供だ。けれども諦念に身を任せ、世の汚らわしさを嘆いてばかりの生を歩む虚しさを、わたしはまだ受け入れることはできなかった。
「正直に申し上げますと、食客のことは……まだ決めかねております。しかし、心が定まらぬまま貴方様への忠義を語ることなどできない」
 このまま昌平君の翼下で安寧を貪ることもできたであろうが、腹蔵なくそう述べたのは彼に対する最大限の誠意だ。とはいえ、こうなってしまっては、もはやわたしには身の置き所がない。
「またとない栄に浴しながら、二度も貴方様からの申し出を斥けた身です。この位次にも、もはや縋ろうなどといういじましい気持ちはございません。もとよりわたしには分不相応な僥倖であったがゆえに、恐れも感じていたのです。つきましては軍部尚書丞の位を辞し、本来であれば河南で過ごすはずであった残りの半年間から、一地方官として、独力で地歩を築いてゆきたく存じます」
 やぶれかぶれになっていると自覚している。
 ただ昌平君は、静かにわたしの言葉を受け止めて。
「その昔、この中華に晋という国があった」
「? ……は、はい」
「そこの周子という君主の直臣に、お前に似た男がいた。毅然として潔く、諫言を恐れぬ忠義の官であったという」
 しばらく考え込んだ後に、突然、そう言った。淳々とした口調は昔日の、軍師学校で教鞭を執る彼の姿を思い起こさせるものだ。声調は低く平淡として、刺々しさはなく、けれども芯がある。わたしは背筋を伸ばし、師の話に聞き入った。
「その官はやがて周子の世子である平公の命で下軍の佐となった。しかし賜った位の高さに恐れを抱いた官は黜除を望み、ある行人にこう尋ねた。自ら位を下げるにはどうするべきかと。だが行人は分からず、帰国して大夫の男に答えを尋ねた」
「大夫は何と?」
「その官はまもなく死ぬか、そうでなければ逐電するであろうと」
 位を下げたくば黙って万人に遜るような弱者の振る舞いをすればよい。ただ自らを曲げずして黜除を望むとなれば、それは平公への忠義が薄れた証左か、或いは恐れのあまり気がふれたのだろう、と昌平君は大夫の言葉を続けた。
「その下軍の佐はどうなったのですか?」
「大夫の言葉通り、次の年に死んだ」
 まるで喉の奥に何かが詰まっているかのように、声がでなかった。
 その「忠義の官」とわたしを重ねるような物言いと、彼が辿った結末に慄いたのだ。
「高い官位を得てなお恐れを知っているのであれば、それは相応しい位次にあるということだ。。だがもしお前が今の立場を分不相応と判じているのならば、その恐れはいずれお前の身を滅ぼすことになるやもしれぬ」
 つまり裏を返せば昌平君は忠節の有無にかかわらずわたしの立場を、軍部尚書丞という位を認めてくださっているということ。こういった不偏不党の顕官などそうはいない。呂不韋然り、自分の懐に有能な人物を引き入れ、威信を高め、その強権をもって敵対する勢力を脅かそうとする者、またそれらに阿諛追従する者がほとんどであるのは、政廟に足を踏み入れたわたしが身をもって知ったことだ。
「お前を軍部の尚書丞に推挙したのは私だが、最終決定は吏部が執り行っている。そこに私情を挟み込むつもりは無い」
「……承知いたしました。先ほどの発言は一部撤回させてください」
 自分に従わぬ者は排するなどという思し召しはもとより師には無かったらしい。
 総司令として合理的で非情な軍令を下す彼が、その怜悧さの陰に潜める情熱、高邁な信念のようなもの。不意にその断片に触れるたびに、去就に迷うわたしの心は揺さぶられる。そうして胸に小さな陽だまりのような、わずかな温かさが生まれた瞬間。
「食客の件に関してはあいわかった。しかしその他に関しては認めぬ。無論、河南へ行くこともだ」
 こちらに向き直った昌平君は儼乎とした口調でそう言った。
 思考が一瞬にして凍り付く。晴朗な空から降る光を受けて窄まった師の瞳孔は、寸分の揺らぎもない。射放たれた矢も斯くやといったその鋭い目がまっすぐにこちらへと差し向けられる。
 河南行きの申し出を一蹴されるのは想像に難くはなかった。
 二年前、轍鮒の急であることを悟り、豹司牙に守られながら李斯とともに夜闇に紛れて出奔したあの時、自分が如何ほどの人間に付け狙われていたのかを身をもって思い知った。
 身代わりを用意させ黒羊丘へと逃がす手筈を整えるよう命じた、あの昌平君の計らいがなければ、わたしは生きていなかったかもしれない。それほどまでに手を尽くしてくださったのだ。
 しかし今は、当時とは状況が違う。夙に河南の情勢を掻き乱していた元凶である茅焦と、友好的な関係を結ぶに至ったという大きな変化がある。
「どうしても、ならぬと仰るのですか」
 わたしはもう一度問う。
 しかし一縷の望みも空しく昌平君は小さくかぶりを振った。
「脅威は茅焦だけではないはずだが」
「それは……」
「加えて、今は私の兵をお前の護衛に割く余力も無い」
 趙から奪った橑陽、列尾、鄴の三城を拠点とし、邯鄲攻略に向けた足掛かりを作ることが軍部の最優先事項である、という御尤もなことを言われてしまえば、さすがに引き下がるほかあるまい。寧ろ軍部に属する身として、本来であれば師を補助するのは自分が担うべき役目である。しかし河南への思いは捨てきれないと、途方に暮れていたところ。
「失礼。少し良いだろうか」
 暫し会話が途切れたその隙に、背後から声を掛けられる。
「…… ……肆氏。何用だ」
 振り返り仰ぎ見る、昌平君が肆氏と呼んだその者は、公卿百官の中でも殊に嬴政に重用されている男である。窪んだ目に禽のようなけわしい眼光、文官にしては逞しい体躯。質素な風采は貴人の中では珍しく、剛毅朴訥といった言葉を体現したような人という印象を受ける。しかしながら当然、官途を歩み始めたばかりのわたしとは殆ど関わりがない。昌平君に用があるのだろうと、その場を立ち去ろうとすると肆氏は「軍部尚書丞」とわたしの名を呼ぶ。
「河南に行きたいのならば右丞相の代わりに俺が兵を貸そう」
「ま、まことですか……!?」
 思いがけず差し伸べられた手に、驚きと喜悦とが入り混じった声を上げるも、わたしはハッと我に返って背後に立つ師のかんばせを顧みた。
。肆氏の話に耳を貸す必要は無い」
 束の間、藤の衣からするりと伸びた長い手がわたしと肆氏を隔てるように差し挟まれる。
「ですが」
「やつは元々竭氏陣営の参謀。かつての呂不韋との激しい対立は周知の通り、互いに刺客を雇い暗殺を目論んでいたほどだ。お前の父を殺した者も竭氏の手先やもしれぬ」
 竭氏とはかつての左丞相だが、王弟と共に嬴政への反乱を起こした際に嬴政陣営によって殺されたと聞く。
 その反乱は嬴政が即位して二年目、ちょうどわたしが蒙家へと移り住んだその年に起こったものであったが、そもそも斯様な事件があったことすらも認知していなかった。というのも嬴政は反乱鎮圧後、降伏した元敵陣営の者を誅殺しなかった。三族の罪を免れたものは嬴政陣営に引き入れられたという。こうして内乱の犠牲を最小限に抑え、情報を外部に漏らすことなく、あまつさえ呂不韋に対抗するべく反逆者を抱え込む命を下した、若王の視野の広さと果敢さが伺えよう。実際に、わたしがその反乱の存在と顛末を知ったのは軍部に入ってからのことだ。
 閑話休題。ゆえに竭氏がどのような人物であったか、わたしはあまり知り得ない。しかしあの呂不韋と相克していたというのだから、それほど力を持っていた人物であるのは瞭然。そして肆氏はまさにその竭氏の腹心であったと。肆氏は反言しない。「わたしの父を殺した者が竭氏の手先かもしれない」という不確実な昌平君の言葉すらも。
「今こそ大王様の傘下とはいえ元政敵。呂不韋の養女たるお前に何を思って近づこうとしたか、安易に信を置くべきではないとは忠告しておく。たとえ肆氏自身にそのような意図が無くとも、そやつの臣までもが、お前に一切の敵愾心を抱いていないとは言い切れまい」
 わたしがいくら呂不韋との縁を切ったと主張しても、過去、かの男の娘として生きた事実は曲がらない。師の言葉通り、かつて不遇をかこち、わたしに毒を盛った父の元従者のように、呂不韋に恨みを持つ竭氏の陪臣に害をなされる可能性も十分にある。
 わたしは肆氏に目を遣った。昌平君が話をしている間、たったの一度も口を挟まなかった男は、ようやく声を発した。
「貴様の父君のことは存じ得ぬが、我々が絡んでいたかは否定できぬ。それほど熾烈に、互いの勢力を削るためならば竭様も呂不韋も言葉通り”何でもした”のだ。その過去を無かったことにしようとも思わん。ただ俺は。今は、俺自身の信念のために動いている」
「わたしを河南へ遣わせるのも貴殿の信念のためと?」
「そうだ。ひいては大王様のため、秦のためだ」
 誰かが言っていた。口に出すばかりの忠義とは建前だ。心に抱えた欲望を叶えるための、聞こえのよい方便にすぎないと。しかし肆氏の真摯な態度がそうさせたのだろうか、どうしてかお為ごかしには聞こえなかった。
 それよりも肆氏という人間をもっと知りたいと思った。かつての主君・竭氏を殺めた嬴政に忠を尽くす彼は、未だに呂不韋というしがらみに囚われ昌平君に心を傾けることができないわたしの、いずれ目指すべき生き様。
「先生。わたしは、肆様の言葉を信じてみたい」
 河南へ行って、この心の葛藤と折り合いをつけるきっかけを得ることができれば、何かが変わるかもしれない。さすればいずれ、師のために身を尽くすことができよう。
 心に満ちゆく淡い期待に背を押されるがまま、わたしは昌平君にそう告げた。
には俺が最も信を置ける麾下をつける。無論竭家とは無関係の者だ」
 肆氏が言葉を重ねる。
 昌平君は険しい顔のまま、口元に手をあてて暫し沈黙した。目の焦点は、虚空の一点に差し向けられている。師が逡巡するときの癖だ。本来であればわたしは昌平君のそうした苦慮を少しでも取り除くべき立場にいるのだ。罪悪感が茨のように鋭く胸を締め付ける。しかしここまできて譲歩するわけにはいかない。寧ろ、斉での諸役に対する対価を求める気概でいなければならないのだ。肆氏のためにも。
 更に幾分か時が経った。この奇妙な鼎談に怪訝な目を向けていた者たちも、三々五々と去ってゆき、正殿の周りにはもはや誰の人影も無い。
「分かった。ただし一度でもの身辺に危険が及べばその時点で連れ戻す。何事もなくとも翌春には切り上げだ。官としての務めも果たして貰わねばならん」
「ああ。承知している」
 突如として静寂に投げかけられた昌平君の言葉に、肆氏は決然と答えると、硬い表情をかすかに綻ばせながらこちらを見た。河南に行くことを認められたのだ、という実感が湧き上がってきたのはその時だった。途端に熱を帯びる目元を伏せて、わたしは昌平君に深く礼をした。
 戦が少ない冬の間は、軍部尚書丞としての任務も必然的に減る。その間だけ、許しをくれたのだ。斉での諸役に対する対価として与えられた暫しの暇、ということなのだろうか。それにしても師は例外的な温情を施してくれたことに変わりはない。

 二人分の足音が、塼が敷き詰められた床に大きく反響する。肆氏に連れられて足を踏み入れたのは、王宮の深奥にある、とある一室。日の光は一切差し込まず、いくつもの燭の明かりが仄暗く辺りを照らしている。部屋の中心には、中華の様相を一目に見渡すことができる壮大な地図の模型が置かれていた。禁中に、極秘裏に設けられた軍議室。といったところだろうか。
「肆様。幾つかお伺いしてもよろしいでしょうか。その……どうしてわたしに声を掛けてくださったのでしょうか」
「理由が気になるか」
「はい。それと、貴方様の目的も」
 肆氏は四方を囲む精巧な壁画に目を向けた。
 ここ王宮の正殿は廟とも呼ばれ、またこの部屋で執り行われる軍議のことを廟算ともいう。廟の字義はみたまやであり、祀られているのはかつてこの国を治めた歴世の君主である。故人を偲ぶ壁画。肆氏が見つめるその一角には、戦神と崇められた昭王に因んだものであろうか、人馬入り交じる激しい戦の様子が描かれていた。
「目的、か。端的に言えば、大王様に仇をなそうとする勢力の鎮静化だ」
「呂不韋様のことですか?」
「呂不韋だけではない。内乱を使嗾する他国の回し者や、秦人でありながら……そうだな、例えばこちらの陣営に吸収しきれなかった竭氏残党と呼ばれる者たちも、そのうちのひとつだ」
 竭氏残党。その殆どを肆氏が纏め上げ嬴政陣営に引き込んだが、取りこぼしてしまった者も少なからずいる。言わば彼の失である。普通は、誰であろうと都合の悪いことは包み隠そうとするものだ。それを敢えて言葉にして挙げた。なんとなく、肆氏は嬴政への忠義の裏に、そういった自責の念を抱えているのだろうことを察した。
「殊に河南の問題は深刻だ。秦王権にまつろわぬものが徒党を組み、呂不韋のような強大な権力者を祭り上げ、政変を狙っている。大王様がその事実にお気づきになる日も近いだろう」
「策はおありなのですか」
「貴様の協力を得られたことだ。まずは武装蜂起を防ぐための地域的な経済封鎖に着手する。具体的には茅焦による河南一帯への武器の輸出を取りやめさせる」
「ああ、なるほど……」
 斉の先進的な冶金技術をもとに、武器商としてたった一代で財を築いた茅焦。彼の商売の土壌は河南にまで及んでいることはほぼ間違いない。数か月前までは止めるすべもなかったであろう厄介な他国の豪商。そんな彼が河南周辺に広げた販路を、掣肘し得る人物が現れた――それが奇しくも、わたし自身なのだ。価値を感じてくれているのは、肆氏とて例外ではなかったようである。
 しかし正直、茅焦とはこれきりにしたかった。
 あの男は恐ろしい。今こそ好意的ではあるが、いつ気が変わって、わたしの身を脅かそうとしてくるか分かったものではない。
「申し上げにくいのですが、あの御仁とはあまり関わりを持ちたくないのです」
「気は進まぬだろうが、折角気に入られているのだから、いっそ利用できるだけ利用してやれば良い。あれは貴様を探し出すためならば客卿の位すらも簡単に捨てられるような箍が外れた男だ。執着されて迷惑をこうむっているのならば心も痛むまい」
「ですがあからさまに好意を逆手に取ろうものなら興も冷めてしまうというものでしょう。細く長く、のほうがよろしいかと思いますが」
「それが貴様なりの男を虜にし続ける手練手管なのやもしれぬが、上手く執り成してくれるのならば俺は何も言うまい」
「肆様。わたしとあの御方は古旧の縁で……というのは貴方様もご存じでしょうに」
 不機嫌に唇を尖らせてみせると、肆氏は軽く咳払いをした。
「まあ奴と直接会わずとも、貴様から河南にいる発ちことを知らせる書信のひとつでも送ってやれば十分効果はあるだろう」
「それでしたら、良いのですが」
「河南には既に手の者も潜行させている。俺は中央から離れることができぬ身だ。耳目となり、かの地の実情を探ってくれ」
「はい。必ず」
 口からするりと出た言葉とは裏腹に、呂不韋に対する執心もまた密やかに胸の中を領している。ただわたしは中央官の身の上であるから、いざという時は切り捨てねばならない。あの男の所業を放置することは、この国への、大王様への裏切りに等しい。だが覚悟が定まっているのか、自分でも分からない。
 とはいえ、河南までは長い旅路だ。良くも悪くも、考える時間はたっぷりとある。


 咸陽を発ち、しばらくが過ぎた日の午のこと。
 はじめは小さな違和感だった。
 食欲不振に倦怠感、睡気。旅続きで疲れも溜まっていたのだろうと、努めて気にしないようにしていたものの。
「…… ……」
 白駘の背で揺られながら、わたしは数日前から明確な体の不調を自覚していたことを思い返す。その症状は日に日に重くなるばかりで、とうとう今この時、限界の閾値に達しようとしていたのである。
 病を得て客死、という最悪の可能性が脳裏を過ったが、それをすぐさま振り払おうとした。しかしその意思とは裏腹に、わたしは無意識のうちに白駘に停止の合図を告げ、その場に立ち止まってしまった。
様?」
 先導していた衛兵が馬首を返してわたしの横に乗りつける。
 名前を呼ばれたがすぐに返事はできなかった。
「ご体調がすぐれないのであれば近くの邑に寄って暫しお体を休ませんか」
「いえ、結構です。先を急ぎましょう。日が暮れてしまうまでに、少しでも遠くへ進まねば」
「ですが。この頃ずっと食が進まないご様子ではありませんか。無理を押しては、河南へ到着する前に……」
 彼の言葉を最後まで聞かぬまま辛くも前進の合図を出した、瞬間、背を冷や汗が伝った。太腿のあいだから、ぬるりと、生暖かいものが唐突に滲み出たのだ。
 ――月事だ。と思ったが、いつもと何かが違う。零れてくる血の量が、尋常ではない。慌てて白駘を止めようと手綱に力を込めたのも束の間、下腹部を激痛が走った。焼けた火箸を強く押し当てられたかのような、息をするのも忘れるほどの激しい衝撃。
 ぐらりと視界が歪み、刹那、暗転する。
様、様!」
 己の名を呼ぶ衛兵の声が段々と遠のいてゆく。すべての感覚が、もはや水膜を隔てた向こう側にいるような曖昧さとなったかと思えば、闇へと呑み込まれて。
 均衡を崩した身体が傾き、落下の浮遊感に包まれたその瞬間に、ふつりと意識は途絶えた。

 気が付けば見知らぬ部屋にいた。

 戸惑うままに周囲を見回して、まず目についたものは壁を覆ういくつもの薬棚だ。無数の抽斗にはひとつひとつ、薬の名前であろうか、耳馴染みの無いような難しい名称が彫られていた。部屋の中央には黒檀のつややかな桌があり、そこには秤や金鍼、薬研などの道具が置かれている。
 わたしはゆっくりと上体を起こした。随分と長いこと眠っていたのだろう、全身がひどく凝り固まっている。声を出しながらゆっくりと伸びをすると、帳が払われ、一人の婦人が部屋の中へと入ってきた。四十がらみか、薹の立っているのはそうなのだが、刻まれた皺も麗しい姥桜だ。
「目が覚めたね。調子はどうだい」
「……あ」
「まだ胎は痛むか。ああ、男どもは追い出したから安心しな」
 戸惑うわたしを見て気風の良い婦人はそう言い放つと、丁寧に事の経緯を教えてくれた。気を失ったわたしを、衛兵らがこの小邑まで運び込んだのが昨晩のこと。それから昼下がりの今までずっと眠っていたようだ。胎、と聞いて倒れる前の記憶が徐々に思い起こされた。下腹部に意識を向けると、まだわずかな疼痛が生じている。御祖から賜った大切な体。しかしこればかりは女の身であることが少しだけ悔しくもなる。
「わたし、とんだご迷惑を」
「気にしなくていい。世話代はアンタの付き人からしっかり徴収している」
 彼女はあくまでわたしに気苦労をかけないようにそう言ったのだろうが、胸の中にはやり場の無い情けなさが蟠るばかりだ。このままでは足止めを強いたばかりか余計な失費まで嵩んでしまう。遅れを取り戻すためにもはや一刻もゆるがせにできない。早くここを出なければと思い、立ち上がろうとすると、視界が渦を巻くような強い眩暈に苛まれた。ふらついた体は瞬時に支えられる。
「おっと、血が足りないんだから動かないほうが良い。いま補血の薬を煎じてやるから、おとなしく待っていな」
「お構いなく。月事ごときで皆を待たせるわけにはいきませんから」
 すると女は沈痛な面持ちをしてかぶりを振ってから、語気を強めて言った。
「違う」
「ち……ちがう、とは?」
「女の身で旅をしている由有り気なアンタが、どんな事情を抱えているのかは知らないが、自分の体のことも分からなくなるほど無理するのは違うんじゃないかとアタシは思うがね」
 感情的な叱りを受けたことに戸惑いながら婦人の顔を見上げると、彼女は我に返り小さく謝罪の言葉を述べたのち、薄く目を伏せる。それからふたたび向かい合った彼女は、愁いを帯びた顔でこちらを一瞥してからわたしに、横になるように促した。
 物に溢れた手狭な部屋に、無機質な音が響く。婦人が手際よく薬を煎じていく様子を、わたしは横になりながらぼんやりと眺めていた。小さな土瓶に、石鉢で擂り潰した当帰の根と緑釉の盤に張られていた精水を混ぜ入れ、架台に置き、弱い火にかける。しばらく経つと芹菜特有の匂いが辺りに充満しはじめた。
「聞いたよ。近頃は飯もまともに食えなくなっていたんだろう。普通、月事が近づくと体は自ずと血を作ろうとするから食い気は増すもんだ。それに出血もかなり多い」
「何を仰いたいのですか」
 彼女は時折薬の様子を確認しながら、こちらに目を向けることなく答えた。
「アタシの見立てでは、月事じゃなくて暗産というやつだよ」
「暗産……?」
「ああ、つまり、身篭もっていたってことさ。残念ながらその様子だともうダメになっているだろうがね」
 ほとんど音にならないような震えた声が、己の口から零れ出る。婦人の言葉を受け、その意味を理解したとき、わたしはただただ呆然とすることしかできなかった。慰めるように彼女は言を継ぐ。二月ばかりの身重であるならば、まだ処置は施しやすい、命は助かるだろうと。しかし、そのようなことはどうでも良かった。それほど、我が身に齎された事実は、易々と受け入れられるものではなかったのだ。
「夫は咸陽にいるのかい」
「その……わたしは独り身で」
「そうか。悪い、野暮なことを聞いたな。だが心当たりはあるんだろう」
 否定も肯定もせぬまま言葉を濁す。婦人はそれ以上、何も言わなかった。静かに血を流す胎の上にそっと手を当てると、様々な感情が去来する。これで良かったのだ。寡婦ながら姦通を犯した、彼を受け入れてしまった罪が白日の下にさらされることは決してないだろう。良かった。良かった。……けれども身を引き裂かれるような、この痛みの理由はなんだ。
「アタシはこう見えてこの邑一番の工だ。侍医だったひい爺様から手習いを受けてな。だからなんとなく、分かるのさ」
 衾を被り、瞼の裏の闇を見つめながら嗚咽を噛み殺す。なにが悲しいのか、苦しいのか、そもそもそのような感情を抱いているのかすら分からない。斉での一件を打ち明けたことで蒙恬を巻き込んでしまった多大な後悔の念と、あの晩、互いの情は確かに縋綣と通じていたのだというささやかな幸福。それらが漠然と、空虚な胸の中にたたずんでいる。
 この胎に宿っていた、人の形すら成していないほどの小さな命の灯は、そんなわたしが犯した許されざる業をすべて、すべてたった独りで背負って逝ったのだ。

 かの婦人が調じた薬はよく効いた。あれからもう一睡を経た頃には、驚くことに体の痛みはすっかり消えていたのだった。十日ほどしてようやく出立の許可が下りた。河南へと続く、秋麗な山々を従えた晴れやかな空を、わたしは愛馬の背に跨がりながら、どこか夢を見ているかのような心持ちで見遣った。
 発進の合図を出してやると、白駘は首を傾けて視線をこちらに差し向ける。日の光を透く新雪にも似たまっさらな毛色に、嵌め込まれたつぶらな瞳が、まるでわたしの身を案じているかのようにじっとこちらを見つめていた。
「心配かけたね。でもわたしはもう大丈夫」
 白駘はまるで言葉を理解しているかのように、ひとたび尻尾を振ってみせる。利口な馬だ。そして数年と一緒にいる間柄であるから、なんとなく、互いの考えていることが通じているような気がするのだ。今だって。
「駘も、もう十歳か。人で例えるといくつになるのだろうな。……そうだ。この旅を終えて咸陽に戻ったら、お前のために立派な厩を建ててやろう。思う存分、のんびりできるような。そこで穏やかに余生を過ごすんだ」
 歳を重ねてすっかり白く染まった鬣を撫で付けてやりながら、優しく語りかける。彼は天涯孤独の自分にとって、最も親しい、唯一の家族とも呼ぶべき存在だ。河南で成すべきことを成したら、わたしには彼のために咸陽へ戻る理由ができた。それはとても、幸せなことだと思う。
 だから悲しくはない。
 寂しくもない。……きっと。

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