浮世夢の如し

  二十四.紅蕖の檻・後編

 帳の隙間を僅かに開けて、朝靄の立ち昇る、まだ夜が明けて間もない薄茫乎とした庭の景色を眺めていると、つい先刻まで衾を被って眠りに落ちていたはずの男がねぶり声でわたしの名を呼んだ。最後に会話を交わしてからさほど時間は経っておらず、互いに一睡を経ただけであるが、殊の外寝覚めは早かった。
 おはよう、と。投げかけられた短い挨拶に応えるように揖をして。再び外に目を向けていると、やがて起き抜けの気怠そうな身体を褥から引き剥がして、寝衣の乱れも正さぬままやってきた彼が背後からふわりとわたしのからだを抱いた。
 触れた皮膚はしっとりと汗ばんでいて、肩越しに垂れる乱れた彼の髪が、風に吹かれて嫋々と靡いては項を擽る。暗がりの中で彼に与えられた感覚のひとつひとつが不意に生々しくよみがえった。互いの呼吸の音だけがやけに鮮明に響く中、甘美な夜の余燼が絶えず去来する。しかしこれ以上ほだされてはいけない。朝を迎えたら、強引にでも振りほどかなければならないと決めたのは他でもない自分自身だ。切なさに疼く胸の裡を悟られぬよう、わたしは絡められた腕をやんわりと解く。
 …… ……。遠くから鶏鳴が聞こえる。
 この身に濃く刻まれた彼の残り香を、誰かに悟られる前に此処を去るべきだと判じ、はやばやと登朝の身支度に取り掛かろうとすると。

「はい」
「少し出ようよ。誰かに着物借りておいで」
「今からですか?」
 肩下まで伸びた髪を結いながら、蒙恬はさもその申し出が当然のように罷り通ると言わんばかりの語調で述べた。
「前に言ったでしょ。連れて行きたい場所があるって」
「確かに仰っていましたが」
 てっきり忘れていたものだと。と付言すると、彼は起き抜けのしどけなさも美しい顔貌を不服そうに歪ませる。
「俺がこれまでにとの約束を反故にしたことがあった?」
「恐らく無い、です」
「だよね。君には真摯に向き合ってきたつもりだったんだけど」
 むしろこれまで反故にしてきたのはわたしの方だ。趙人との輿入れを控えていたという致し方ない理由とはいえ、一度結んだ約束を膠鰾もなく断ってしまったことに、それなりに負い目はある。
 ふと。今頃自分の机案の上に山積みになっているであろう吏務の数々が脳裏にちらついたが、それらを払拭するようにかぶりを振った。どうせこのまま中央に戻ったところで仕事など手につきそうもない。
「もしかして嫌だった?」
「いえ。そのようなことは」
 返事を濁して顔を逸らす。嫌なわけがない。むしろ今この瞬間も、未練がましい己に嫌悪感を抱いてしまいそうなくらいには、離れ難いという思いが蟠っている。もう少しだけ共に過ごしたい、なんて軟な言葉は、彼の前では決して口にはしなかったけれども。

 涼しげな葉擦れの音に、時折、蝉の鳴く声が聞こえる。
 視界を横切る水流のせせらぎが、照り付ける陽光に和す。底に沈んだ岩に生す小さな藻までもがくっきりと見えるほどに透明なこの川は、蒙家からほど近い場所にあった。
 ここに連れてこられた目的も告げられぬまま。なにやら蒙恬が若い竹稈を水に沈めているのを横目に、わたしは手慰みに近くに生えていた葉を手折り、それを裂いて捻じ曲げて、舟を模した形を作っては川に浮かべていた。
 呆気無く転覆するものもあれば、うまく視界の奥へ消えてゆくものもある。気紛れな波に簡単に攫われてしまうそれは、まるでこの乱世に翻弄される儚い命の灯火のようだ。志半ばのまま沈む者もいる。幾多の荒波を乗り越えて進んでゆく者もいる。その果てが中華の統一だとするならば、辿り着く舟は何隻にまで絞られるのだろう。
 そのようなことを考えながら、また枝から葉を一枚ちぎると。ふと足元に影が落ちた。いつの間にか隣に立っていた蒙恬が、わたしの手からひょいと作りかけの舟を取り上げた。
「難しそうな顔して何考えてるの?」
「特になにも」
「そう」
 本当にくだらないことだったから濁したのだが、どうやら彼はそれが気に召さなかったようで。蒙恬は手に持っていた葉を一瞥してから、川へと投げた。まともな舟の形すら成していなかったそれは、そよ風に煽られながらも綺麗に着水し、上手に揺蕩いながら下流の方へと消えてゆく。
「……天運、というやつでしょうか」
 思わず呟くと、蒙恬は小首をかしげた。
「それよりもさ。竹を引き揚げるの、少し手伝って」
 彼はそう言って歩を進め、紅い衣の裾を片手でたくし上げて川に入った。
 水深は二尺にも満たないほど浅く、水流は緩やかで溺れる心配もないだろう。けれども。
「ほら、冷たくて気持ちいいよ」
「はしたないと思われませんか」
 この場で衣を膝丈まで捲り上げて素足を晒すなど、いくら親しい蒙恬の前とはいえ抵抗があるというものだ。それは儒教道徳にもとることだから。とはいえ昨晩のことを思えば、もはや取り澄ます必要など無いと思われるかもしれないけれど。
 どうするべきか悩んでいると蒙恬はわたしの前までやってきて、水の中に足をつけたまま手を差し出した。
「思わないからおいで。ここには俺しか居ないからさ」
 迷うわたしを慮るような声色は、まるで幼い我が子に母が向けるような、慈愛に満ちたものだった。わたしは母を知らないが、不思議とそう思った。
 沓を脱いで揃えて置き、躊躇いながらも裾を捲る。水に落ちて濡れてしまわないように片手でしっかりと抑えながら、つま先を垂らすようにして川へと入る。途端に体を駆け抜ける、ひやりとした感覚。外気はこんなにも蒸し暑くなろうとしているのに、流れる水は雪のように冷たい。体の芯まで濯がれるような感覚に、小さく声を上げて身震いするわたしを見て、蒙恬は破顔した。

 長らく水に浸かっていた竹はもとの冴えるような青緑色と節の白色がますます鮮やかになっていた。蒙恬は自身の召物が汚れることも厭わずに地面に腰を下ろすと、それのささくれを削ぎ、節を断ち、断面に刃をあてて半分に割ってゆく。半分になったものをまた二分し、さらに二分してと。やがて糸のように細い、竹ひごとなったそれらを、彼は長い指先を器用に動かしながら組み始める。
「何を作ろうとしているのですか?」
「なんだと思う?」
「魚籠」
「惜しいかな」
「ええと……」
「まあ。退屈かもしれないけど見ていてよ」
 近くに座り、言われた通りに蒙恬の姿を打ち守る。
 雲が晴れますます冴えゆく日差しが、端正な横顔の陰影を濃くした。昨夜の蠱惑的な色香はすっかり鳴りを潜め、琥珀の瞳には村邑の少年たちのような純然たる輝きがひかめいていて。胸を擽られた気分だ。わたしの知らない彼の姿がそこには在った。
 やがて彼は筒形の、籠のようなものを編み終えた。その先端は窄められており、内側に竹ひごの余った部分が折り込まれている。
「罠でしょうか?」
「そう。蟹を捕まえるためのね」
 成程。折り込まれた部分は「返し」になっていて、一度中に入ってしまえばこれに邪魔をされて外に出ることができない。
「あとは中に餌と重石を入れたら完成」
 そう言って蒙恬は腰に帯びた革袋を逆さまにして、中からくすんだ色味の肉片を取り出し、それを罠の中に入れた。途端に饐えたような臭いが鼻を衝いて、わたしは思わず顔を顰めながら掌で鼻口を蔽う。
「ごめんごめん。今朝絞めた鶏なんだけど、この暑さで既に腐りかけだ」
「腐りかけって、餌として大丈夫なんですか?」
「むしろこの状態が一番良いんだよ。蟹は臭いにつられてやってくるから」
 彼は得意気な様子でそう述べながら、腰をかがめて重しとなる適当な大きさの石くれを拾い、それもまた竹籠の中に詰め込むと、再び川に入って生い茂る葉の陰になるあたりに静かに沈めやった。
 透くような水底に突如として天から降り立ったその中からは、たいそうかぐわしい匂いがするのだろう。徐々に狭く鳴りゆく入り口を、獲物は圧し潰されそうになりながらも這い続け、ようやく盛饌にありつけた時にはどう足掻いても出られぬ檻の中。可哀想に。
 脱することはあたわず、刹那的幸福のあと、後悔はきっと絶え果てるまで続く。
 どこか、自分自身を俯瞰しているよう。
 彼が手ずから編み上げた檻の中に愚かしくも囚われてしまっているのは、わたしだって同じ。熱病じみた妄執に取り憑かれ、とうとうこうして行き着くところまで行き着いてしまった。されど最果てには何も無く、かつえるような苦しみがこの身に残されだけ。あまりに愚かしい――なんて。少しだけ身につまされるような気になった。

 ふと名を呼ばれて顔を上げると、いつの間にか戻って来ていた蒙恬が眼前に立っていた。夏の風にさ揺るぐ淡い色の髪がふわりと宙を泳いでいる。陽光に照り返ると時折金糸のように煌めくそれを、ほとんど無意識のうちに目で追いかけていると、ふと互いの視線が交わった。次の瞬間、何の前触れも無しに、水に濡れていた彼の両掌がひたりと己の頬を覆う。
「わ! き、急に何をするんですか」
「また考え事」
「すみません。その、本当にくだらないことなのですが」
 何でも知らないと気が済まないと言わんばかりの渋面と共に差し向けられた視線に、無言裡に続く言葉を促され、わたしは嫌々と口を割った。
「似ているなと」
「何が?」
「わたしと蟹が」
「ごめん。さすがの俺でも理解し難い」
「ですからくだらないことだと申しましたのに」
 眉根に小さく皺を作りながらなんとも微妙な反応を見せた縹緻よしに、勝手な人と言い捨てて、半ば不貞腐れながらツンと唇を尖らせる。だが分かっていて振り回されながらわざとらしく不満顔を作る自分も、大概この男に毒されているに違いない。むずかるわたしを宥めるように、隣に座った蒙恬はわたしの腰に手をやった。たったの一度共寝をしたくらいで彼の馴れ馴れしい振舞いを簡単に許してしまいそうになる自分が忌まわしくなる。もとい女にはそういうきらいがあることも知っている。だからこそ癪なのだ。とうに女としての生を打ち捨てたわたしが、如何にも女々しい感慨に耽っていることが。
「しかし暑いですね」
 彼の手をするりと躱してそう呟いた。弥増す蝉の音が、沈黙を掻き消すように絶えず降りしきる。
「あとは待つだけだから。もう少しだけ我慢して」
「最後までお付き合いしますよ。こういうのも新鮮で楽しいです」
「ありがと」
 夏の日差しは河原の砂礫を鬱陶しいほど白々と照らしている。木陰にいてじっとしていても汗が滲み出るほどの暑さだった。水辺から運ばれてくる清涼な、わずかな爽快感を乗せた風だけが時折心地良さを生んでいる。
 そのような最中、わたしはかつての、洛邑の夏を思い起していた。泥臭さと、人いきれと、名状し難い心地悪さが濃密に溶け合った、飯盒から洩れ出るようなねっとりとした空気が身体に圧し掛かる蒸し暑さ。もはや自分とは縁遠い場所であるはずが、その記憶はいつまでもわたしの生に纏綿として離れず。
 何故か矢にも盾にも堪らず、ゆくりもなく、かの土地へ旅立ちたいと思うことが幾度もあった。その衝動が何を意味するか。わたしはどことなく、自分の根柢に一抹の翳りが常に付きまとっていることに気付いていた。自らの髪を切り落として三年。あの男と手を切って三年。わたしはその諦念についぞ身を委ねきることはできなかったのだ。とうに打ち捨てたと思っていたものを、今も捨てきれずにいて。果たしてかつての己は正しい選択をしたのか。これからもし続けることができるのか。答えが知りたい。
 もう二度と河南に戻ることは叶わないと思っていた。だが奇しくも茅焦との情誼を結ぶことができた今であれば、あの場所に、わたしを脅かそうとする者はもういない。
 そのような長考の末、おもむろに頭を擡げ無辺際とした空へと視線を差し向けながら、わたしは粛然と口を開いた。
「咸陽に戻ってすぐに先生からの招聘を受けまして。その。食客として迎え入れたいと、有難くもお申し出をいただきまして」
「うん」
「ですが、斉であのようなことがあって。わたし……何を信じれば良いのか、まるで分からなくなってしまったんです」
 無聊を慰めるように拾った枝の先で砂礫をほじくっていた蒙恬がその手を止める。
「もし食客となるのならば、決して徒食はいたしません。ただその為には今一度、自分の心を見つめ直すべきであって。ゆえにまた河南に戻ろうと」
 或いは他の理由があるとするならば、己だけが抱え込むべき業を蒙恬に背負わせてしまった、その過ちを、たった一刹那であろうとも忘れてしまったこと。おいそれと身体を許してはいけないと分かっていたにも関わらず、浅ましき意馬心猿の様を晒した、その戒めであるのかもしれない。この男と離れるべきだ。そうでもしなければ、進むべき道を見誤ってしまいそうで。
「貴方には反対されるかと思っていたのですが」
「たとえ往生尽くめに止めたところで意味が無いことくらい知ってるよ。一度こうと決めたら梃子でも動かないのが君だから」
 そうしみじみと語る蒙恬を見て、咀嚼しきれぬ思いはあれど、わたしはその未練を断つように深く頷く。生半可な覚悟のままでは何も為すことはできない。己の信条にもとる感情はすべてここに置き捨ててゆくべきであって。
の選択を尊重したい。君はもう何にも縛られずに生きてゆけるほど立派になった」
 しかしどこか淡い寂寞を纏わせたようなその声を受け止めかねて、自分の手元へと視線を落とす。ああ、そうだ。他ならぬ彼のお蔭で、わたしはこうして自由を手に入れた。呂不韋の一挙手一投足にただ怯えていたあの頃から、十度の春が廻らぬうちに。ふと湧き上がった追憶の波濤が脳裏に押し寄せ、己の両眼の先に過去の情景をありありと映し出す。振り返れば長いような、はたまた須臾の間に過ぎ去ったような歳月だった。一再ならず苦境に喘ぎ、途方に暮れた。自由とは必ずしも幸福ではないのだと思い知らされた。けれども決して不幸ではなかったと、悔恨を抱える貴方に伝えたい。かの中秋節の晩に迎えに来てくれて、手を伸べてくれて、わたしは貴方に心から感謝しているのだと。だがその言葉さえも、彼からしてみれば痛ましいものに感じてしまうのだろうか。
「ただ、俺がいつだって君の身を案じていることを忘れないでいて」
「……」
「どれほど遠く離れようと、幾年と時が経とうと。如何なる隔てがあろうとも」
 ――如何なる隔て。
 この乱世の冷然さを以ていっそう光るその言辞が胸を打つ。
 心腑がきゅっと絞られるような切なさに、眉を顰めながら息をつめた。蝉しぐれがひたと止んで、あらゆる風物からわたしと彼との二人が切り離されているかのような心地になる。凛とした彼の言の葉の、断片のひとつひとつが寂寞とした世界の中で絶えず反響して。脆く不安定で、今でも現実に引き戻されそうな夢の淵にいるようだ。叶うならばこのままずっと甘美なまどろみに浸っていたい。
 ただわたしは、蒙恬の心を少しでも手に入れることができたと勘違いできるような高慢ちきではなかったものだから。
「たまに、ほんのたまに思い出してくださるだけで良いんです。貴方にとってのわたしがその程度であれば嬉しい」
 淡白な態度でそう述べた。
 それはわたしが、貴方という華やかな褒辞や名誉に囲まれたひとかどの人間の傍に、極めて狭い一隅の、けれども決して誰にも侵されることのない居場所を作るための選択だった。詮ずるに、傷つくことを恐れているただの臆病者だ。
「それよりも、そろそろ良い頃合なのでは」
「そうだね」
 言葉を堪えるような蒙恬に白々しくそう話しかけると、彼はしゃんと立ち上がり、川に入ると水底から竹籠を引き揚げる。編み目の隙間から中を覗く姿をじっと見遣っていると「」と彼の唇が、自分の名前の音を模ったような気がして、わたしは日向へと歩を進めた。水辺からやや離れた、禾本がまばらに生える砂利交じりの土の上で、蒙恬が籠をひっくり返すと、中からは重石と共に手のひら大の蟹が飛び出してきた。
「三匹入った」
「小ぶりですね」
 何年も前に茅焦の邸で膳に上ったものを思い出しながら呟く。とはいえこの蟹も小さいながら鋏は鋭く、細長い歩脚ですばしこく動き回っていて、わたしにはとても触れられそうにない。しかし蒙恬は臆することなく、こなれた様子で甲羅を掴んでひょいと持ち上げる。
「ここらではこの大きさがせいぜいかな。海に近いところだとこういうのがたくさんいるけど」
 手を広げてその体長を示したかと思えば、手に持つ蟹の腹を返して雄雌を見分け始めたりと、喜々として蘊蓄を傾けだす蒙恬があまりにも新鮮で。ふと、己の口元が知らぬうちに緩みきっていることに気付く。はっとしてすぐに表情を引き締めるも、どうやらその様子を見ていたらしい彼がこちらを向いて相好を崩した。
「俺だけはしゃいで子供みたいだね」
「ええ」
「そこは否定してよ」
 ひとしきり二人で笑い合い、やがて蒙恬の「さすがに暑いからもう戻ろうか」の言葉で肩を並べ帰路に就く。背丈の高い叢の間を幾度も抜け、彼曰く邸への近道であるという、狭い畔の柔い泥濘に時折足を取られながら。振り返れば、水気を孕んだ土に蜿蜒と二人の足跡が続いている。郷愁を誘うその景色は鮮烈にわたしの眼に焼き付いた。
「小さい頃、よく弟と一緒にあの川に遊びに行ってたんだ。蟹を掴まえたり、魚を釣ったり。二人して濡れ鼠になるまでやんちゃばかりしてさ。それで邸に持ち帰った蟹を寝ているじィの周りに置いておくと、驚いて跳ね起きるわけ」
「まあ。大変な悪童で」
「本当に。迷惑かけたって思ってる」
 しめやかな声色。胡漸の亡骸を槥車に乗せ、遥々、咸陽までの道を歩いた彼の苦衷は察するに余りある。
「きっと昔の俺は寂しかったんだろう。父上はずっとあんな感じだし。じーちゃんも忙しい身の上であったからね。からすれば贅沢な悩みに思えるかもしれないけれど」
 蒙恬の言葉にわたしは大袈裟に首を振った。
 故国を追われ、何年と粗衣粗食に耐えたあの頃の生活は、決して辛いものではなかった。それはこよない愛を絶えずこの身に与えてくれる存在があったから。わたしにとってそれは亡父で、蒙恬にとってはきっと胡漸であって。世才に疎い幼少の砌に、心密かに抱えていた彼自身の痛みは、他人の人生に斟酌されるものではない。何者も、その当人にしか知り得ない感情を憶測で価値付けるべきではない。
「蒙恬。わたしで宜しければ、貴方が今日お話してくださったこと、ずっと憶えておいて差し上げます。それが胡漸さんへの弔いになれば」
「気苦労掛けるね」
「いいえ。むしろ、嬉しいんです。こうしてどんな自分も厭わず相手に曝け出すことができたら、そして余すことなく互いを知ることができたのなら、それこそが無上の幸せであるのだと。そう信じています。ですから――」
 つと前を歩く蒙恬が歩みを止めて、こちらを振り返ったかと思えば、わたしの唇をその長い指の先で優しく触れた。続く言葉を遮った彼の瞳は、穏やかな笑みと共にしんなりと細められる。
「ありがとう、
 目を瞠って驚き固まるわたしに彼はまっすぐそう告げて、それから再び背を向けた。己のかんばせに落ちていた影が退くと、赫然とした陽の光が嫌に目に刺さる。
「……先に言おうとしたのはわたしなのに」
 たちまちのうちに頬にのぼった熱を紛らわせるように、口元をきゅっと引き締めながら低く呟いた。それから遠景まで続いている畔の一本道を、もはや道とも呼べぬほどに狭く緩い足場を、沃野を抜ける風に華美な衣を靡かせながら前を行く蒙恬の背を追って、足取り早く進んでゆく。

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