はじかみが添えられた鯉の膾。新麦の湯餅。茘枝の蜜漬け。青銅の氷鑑でよく冷やされたそれらに、夏の暑さで醸した霹靂酒がよく沁みる。滋味に富んだものを控えるようにと言われる時季であるが、客中の質素な食事も勘定すれば許されることだろう――と、美膳に満たされた胃腑をさすりながら、やや働かなくなってきた頭をいっそ褥に埋めてしまおうかと思いかけていた時だった。
入口に控えていた侍立の娘が何やら困った様子で部屋の中へとやってきた。その背後には蒙恬の姿がある。そうと気づくなり鈍りかけていた思考は覚醒した。わたしは慌てて居住まいを正す。
「あ。お世話になっています」
「軍部尚書丞。少しばかり密議を諮りたいんだけど。俺の部屋で一献交えながらいかが?」
慇懃な言辞とは対照的に馴れ馴れしい笑顔を見せる蒙恬であるが、世俗ではこのような夜半に妻でもない者の寝所を訪ねるなど言語道断。軍部の要人同士である前に、彼は男で、わたしは女だ。とうに二十を過ぎた寡婦とはいえ。侍立の娘もなんとか蒙恬の立ち入りを防ごうと奮闘したようだが、その努力も虚しく口上手な彼に言い包められてしまったであろうことは容易に想像がつく。
「若君。様もお疲れの様子でございますし今日のところはお戻りになられては……」
それでも必死に食い止めようとする娘に、蒙恬は努めて優しく微笑みかけながらも、歩調を緩めることなくこちらへと向かってきて。牀に腰掛けたわたしの顔を見下ろしながら得意気な表情で言った。
「政事に関わる大事な話だから。あ、それと俺まだ軍部尚書丞殿から直接の弔辞を賜ってないんだけど?」
「陸仙さんにお伝えしましたが」
「あいつも勝手なことするよね。代理なんて立てた覚えは無いのにさ」
こればかりは反論の余地も無い。
陸仙もあっさり受け取ったものだから然程気にしていなかったが、旧知であることに甘えて任務をおざなりにしてしまったのはわたしの手落ちだ。
あの侍立の娘には悪いことをした。
直ぐに戻ると言い残して客間を去ったが、おそらくその口約束が果たされることは無いだろう。ただでさえ放逸的なこの男は酒が入るといつにも増して我儘になる。わたしにはそんな彼を易々と引き剥がせる自信は無い。そうと知っていて誘いを受けた自分も自分だが。
「御方便なものですね」
「半分は本当だよ。同じ軍部の人間として定期的な軍情のすり合わせは必要だから」
したり顔で宣う蒙恬に、思いのほか元気そうで良かったと洩らせば。
「にもそう見えているなら良かった」
彼はそう呟いて長い睫毛に縁どられた双眸をこちらに差し向けた。繊月の透く美しい瞳はきっとわたしが知る彼のそれと何ら変わりないはずだが、しかし僅かな違和感を拾う。不気味なまでの飄然さだ。まるで出逢ったばかりの頃の、真意を壅閉した作り物の磊落さと同じような――と。そこまで思考を巡らせたところでわたしは己の短慮さを自省した。
幼い頃から傍に居た傅役を喪った彼が悲しんでいないはずが無いというのに。
その痛みを、もはや彼は誰にも打ち明けようとはしないのかもしれない。将というものは武徳をもって麾下を帰依させる。山高くして崩れざれば則ち祈羊至り、淵深くして涸れざれば則ち沈玉極る、とは菅子の訓え。何者にも侵されぬほどに高く聳える峰々、或いは深い淵水は人々の信仰心を喚起する。同様に、私心に囚われぬ気高き主君に人は追従する。彼はまさにそう在ろうとしているのかもしれない。はたまたもう既に、そう在るのかもしれない。
それでも。わたしの前ではそのままの貴方でいて欲しいと願うのは、傲慢だろうか。
暑気払いとの大義名分を与えられた酒を勧められるがまま口にする。伏日の一般的な食文化の内であるから断る謂れは無い。それにしたって。酸いも甘いも噛み分けてきたこの歳になって、若き頃から知る蒙恬の私室で、軍部の儕輩同士としてはやや近い距離で二人並び座り、日頃抱えている懊悩を酒と共に流し込んでいるこの状況は中々に感慨深いものがある。
「いつ戻ってきたの?」
「昨日です。そのまま戦勝祝賀の儀式に参加して、官舎で一泊。今日は総司令と面謁し、官衙に寄ってから蒙家に来たといった具合に」
すると事繁の身を労うように、ご苦労様と蒙恬は苦笑した。
「てっきり俺達より先に帰っていると思っていたよ」
「決して船には乗らず陸路で帰還するようにとの御下命でしたので」
万一兵糧船が敵襲に遭った際、すぐに燕へ赴き支援を仰ぐためといったところだろう。とはいえ燕に遣わされるはずの外交官はまた別に居て、わたしは彼の補闕に過ぎないが。一切の忽略を許さず幾重にも布石を打つ様は、徹底的なまでの勝ちに拘ったまさに王翦らしい策である。
「今や君も一廉の官人。軍部にとって欠くべからざる人物だ」
酒気の混じる艶めかしい吐息と共に、しみじみと呟いた蒙恬の言葉を受け、己の胸に込み上げた情は決して喜ばしいものではなく。むしろそういった充足感とは程遠い、友の期待を裏切ってしまったことへの後ろめたさだけだった。
一廉の官人、か。花実も咲かぬ埋もれ木の如き自分が、そうなることができたのならどれほど良かっただろう。甘い夢想とは裏腹に現実はどこまでも苦く、蒙恬が望む自分で在ろうとすればするほど、不才なわたしはこの身を堕とさねばならなかった。
「……」
色欲とは元来、聖なる情愛に結び付くべきものであって。そのような尊ぶべきものを、私益のための一手段として軽んじることに、昔日の自分は強い嫌悪感を抱いていたはずだ。離れの楼閣に追いやられ、呂不韋に召し抱えられていた春を鬻ぐ女たちと同格に扱われた時には、忌々しいと、憤ろしいと。堅実さの欠片も無い卑怯者たちと自分がなぜ一緒くたにされなければいけないのだと、心の内で非難していた。
いざ自分がその卑怯者と成り果てた今、蒙恬の喜色に満ちた眼差しを目の前にして、どうして平然としていられよう。
彼にだけは知られたくなかった。失望されることは目に見えている。けれどもそれ以上に耐えきれない。
「……栄誉を得たのは、ほんの偶然にすぎません」
「そんなことはない。斉が鄴に兵糧を送ろうと決めたのは君の外交手腕があってこそ」
やっとのことで絞り出した慚愧の言葉。だが彼はそれを謙遜と捉え軽々といなす。
「ここだけの話。かつてあの豪商を客卿に推挙したのは、既に后勝を掌握していた秦の策略でもあったんだ。斉との遠交を為す上でそれほど障害となり得る人物だったから。斉王政と永劫的に相容れぬならば、我々が取り込んでしまおうという考えだ。けれども失敗した。知っての通り豪商は客卿の地位を易々と辞して国へ帰った。そんな相対する二つの勢力が君の説得で手を取るに至ったのは、かの蔡沢先生でも為せなかった目覚ましい成果だよ」
愚かしいまでの誤謬を堂々と口にする友の瞳は一切の曇り無く澄んでいる。蔡沢を超えたなどと行き過ぎた妄想を押し付けられては、もはや乾いた笑いを浮かべることしかできない。彼はきっとまだ夢を見ているのだ。青い理想を描いた昔日の、穢れの無い繊月の夜を。あの頃の自分は確かに蒙恬が望むような清廉さを具えていたかもしれない。だがそれは無知ゆえの無垢であって。やがて世の汚濁に触れ、数多の謀略に巻き込まれ、それでも綺麗なまま生きてゆけるほどわたしは強い人ではなかった。
手に持っていた酒杯を置き、俯きながら小さくかぶりを振る。音もなく垂れた髪が帳のように顔を覆う。
「買い被りすぎです。わたしが口巧者でないことくらい、長年の知己である貴方ならばご存じでしょうに」
努めて気丈に振舞おうとした。しかし微笑を模った口許から漏れ出たのは涙声にも近い、震えた音吐だ。蒙恬が息をつめてはたと唇を引き結んだ気配がした。彼が飲み込んだ呼吸に、かすかな動揺が滲んでいる。
「客卿であった豪商は、七年前わたしを娶ったその人でした。あの方が手ずから切り捨てた縁であったにも関わらず、未練があったようでして。破鏡の後、間者を放ち、また自らも秦に入り、幾年とわたしの身辺を探っていたそうです」
改めて言葉にすると、茅焦の狂気に満ちた執着心など露知らず、とんだ奇縁だと真に受けていた自分の愚かさが浮き彫りになる。
「先生はすべてを知っていて、斉への使者にわたしを選んだ」
少なからず信頼を寄せていた人の思惑の上で踊らされていたのだと悟った、あの時のわたしは意外にもあっさりとその事実を呑み込むことができた。裏切られたという義憤や深い失望は瞬く間に諦念へとすり替わり、すとんと胸に落ちた。頑是ない子供の頃に呂不韋の手を借りて生き延びるしかなかったわたしは、その時から既に利用されて然るべき存在であって、そこに己の自我など些かも許されず、けれども人並に救われたいと願ってしまっていた。すべて、その代償だ。
それでもこの瑣末な身ひとつで、かつて自分に手を伸べてくれた人を救うことができるならば、それはこの上ない僥倖であって。そのためには一切を捧げても構わないと。固く守り抜いた操も、尊厳も、かかずらうすべての縁を廃しても良いと、そう思ってしまったのだ。その愚かな献身は己が信ずる至上の情であり、天涯孤独の身に唯一残された存在証明の手段であったから。ただ、最後の最後まで貴方というしがらみを拭い去ることは難しかったけれど。
「わたしは蒙恬が考えるよりずっと醜悪で、品位に欠けた汚い女です」
だからいっそ、その手で引導を渡してくれないだろうか。未練が無いと言えば嘘になる。だが騙し騙しこの関係性を続けようとしたところで、綻びは大きくなってゆくばかりで決して元には戻らない。ならば儚く、潔く散るからこそ美しい花のように。この縁が二人の中で美しく終わるべきであるのならば、ここが幕引きであることをわたしは望む。
「違う」
しかしついぞ定まり切らなかった覚悟を、蒙恬の一声が押し退ける。柔らかく静かな言辞、それでいて確とした口調で。
「確かに君は、君自身が是としない方法で斉との誼を結んだのかもしれない。けれどもそれは決して、己の利欲の為ではないだろう」
彼はその玉手を汚すことも厭わず、わたしの心に重たく淀んでいる澱を丁寧に掬い取ってゆく。
「さがない思惑や権力に雁字搦めにされながらも、君はこの戦における己の役目を全うしようとした。心から思い定めた他人に災厄が降りかかるくらいならば、自分を犠牲にすることも厭わない。そこに僅かでも自身が美徳とする崇高な愛というものが存在するのならば、幾度となく傷ついても決して意志を曲げようとしない。君はそういう人だ」
不意に視界が潤む。続けざまにかけられる言葉は、その勢いに反してどこまでも温かくて。
自分は決して褒められるような道を歩んできたわけではない。齢十二にして異郷の地で実父を失った悲運、胸を裂かれるようなその痛みを和らげるための選択を続けてきた人間だ。養父たる呂不韋を明確に悪と判じながらも盲従し、いずれ我が身を吞み込んでしまうであろう泥濘から抜け出すこともせずにいて。天から下されたさだめを無抵抗のまま享受しようといった諦念に囚われ続けていた。なんて空疎なわたしの生に、貴方は手を伸べるだけでは飽き足らず、価値までも見出してくれようというのか。
「信念の為に自身を汚すことを厭わない君だからこそ、その心は何者にも汚されない」
面を上げれば、或いは一度でも瞬きをすれば、瞳に張った水の膜が溢れ出してしまいそうで。情けない姿を晒すまいと俯き押し黙ったまま限界寸前まで迫り上がる感情を抑えようとするも、慰めるように背を撫でてくれた彼の、あやすような手つきにとうとう耐え切れず。涙が落ちた。はらりと数滴、それを皮切りに、決壊してしまえば勢いはとめどなく。
「綺麗な人だよ」
心を打つ友の言葉。
途端に肩を震わせてしゃくりあげるわたしを、蒙恬がその腕の中に抱き寄せた。何処に行きようもないこの身を尚も力を込めて強く擁いてくれる彼の優しさがどこまでも切なく、感情の澎湃が暴れ回っている胸を、爪を立てて掻き毟りたいような衝動に駆られる。
こんなことになるならばせめて貴方を悲しませない選択をすれば良かった。だがこの身には既に過分すぎる価値が付されている。今更すべてを打ち捨て市井に紛れ生きてゆくことができようか。わたしは亡父と同じ轍をなぞり歩き、文字をもって人の命を脅かし、きっといつか一人では抱えきれないほどの憎悪に圧し潰される。もう引き返せない。だが、そうであっても。
「蒙恬……どうか、わたしを見放さないで」
ぐずぐずになった酷い顔で、短い呼吸を繰り返しながら吐き出すように、浅ましくも泣訴する。
大切な人を今度こそ失うまいと、己の無力さを心に悔いて強くなりたいとひた願っていた。やがて身を知り、世を知り、そんな自分の幼さに気付いた。慈悲を施してくれた者は、自身の野心のためにわたしの心に付け込んで利用していたに過ぎなかったのだと。甘い幻は次々と打ち砕かれ、失意に沈み、だが手に入れたものは何も無く。ただ、かくの如き憫然たる人生にたった一つ、この友と出逢うことができた幸運があった。たとえ深潭の底に墜ちたとしても、顔を上げればその煌めきは常に天に在る。鮮烈な光を放つ星辰のように、彼の輝きは己の中できっといつまでも絶えることはないのだろうと思えるような美しい友誼だった。だがわたしはその尊い美しさを永劫のものにしたいがために、これまで散々彼を突き放し、拒絶して、傷つけてしまった。許され難いことだ。そのくせ今度は見放さないで欲しいなどと、虫のいい考えであることは自分がよく分かっている。
しかしこの期に及んで蒙恬の手を振り払う勇気など持ち合わせていなかった。それどころか彼との縁を手放し、一寸の光も無い暗がりを孤独に生きてゆくことが怖くて堪らなくなった。
「」
か細い声で名を呼ばれ、項垂れたままでいた顔をゆるゆると持ち上げる。
嗚咽を噛みながらはっきりとしない視界に浮かぶ彼の顔貌を見据えようとして、けれど怖くてまた目を伏せた。
「みじめだとか、鬱陶しいとか。あとはどう思われようとて構いませんから」
どのような形でも良い。貴方の心のほんの片隅にわたしを置いてくれるのならば、それ以上は望まない。友から疎まれることに屈託し、傷つくことが怖くて堪らなくなった小心者のわたしは本心に隔てを置く。もはやそれが本心と成り代わっているのかもしれないと錯覚してしまうほどに、つとめて寡欲であろうとする。
「あまりに身勝手だ」
だがそんなわたしの姿勢に、蒙恬はまっすぐに憤りを放った。
その剣幕に圧されてたじろぐと、彼はやや粗暴な手つきでわたしのおとがいをぐいと持ち上げて、強制的に視線を絡ませる。激情迸る琥珀色の瞳が、夥しい熱波を湛えながら揺れていた。
「ずっと頑なだった君がやっと、やっと縋ってくれた。そんな俺の幸福さえも、無かったことにしようだなんて」
真摯な怒りが込められた蒙恬の発言にわたしは思わず言葉を失くす。
彼をまじまじと見つめ返した。それからしばらくしてようやく己の過誤に気付き、同時にわたしを非難した友の顔が苦しそうに歪んでいる様を見て、愕然とした。
なんてことをしてしまったのだろう、と。
誰かの痛みを引き受けることに抵抗など無かった。自分一人が不利益を蒙れば済むことなら、わたしは躊躇無くそうしてきた。それよりも大切な誰かが傷ついてしまうことの方がよっぽど嫌だったからだ。けれどもそれは友への裏切りに他ならなかった。彼の優しさを撥ねつけて、自分だけが不幸だと思い込んで。独りでばかり苦しんで。それが蒙恬をもっと傷つけてしまうことだと、どうして気づけなかったのか。
かの中秋節の夜、権柄ずくでわたしを呂不韋から引き剥がすこともできた彼は、わたしの返事を待って救いの手を伸べてくれた。他でもない、という一個人の意志を尊重してくれた友の心を、無碍にしてしまった。悔悟の念がじくじくと滲む。
「わ、わたしは……貴方にどう、償えば良いのでしょう」
胸の内奥から声が漏れ出た。
当然、身体を寄せる蒙恬の耳にも届いていたのだろう。彼は困ったように息を吐き、それからわたしの頬に力無く添えていた指先に力を込めて静かに顔を上向かせた。再び目がかち合い、数瞬、どことなく意味ありげな間を持たせた蒙恬はその長い睫毛をおもむろに伏せる。同時にやんわりと、しかし女の身では抗いがたい程度の力を込めながら押され、私は思わず目を瞠った。
――蒙恬。
と。その名を紡ぎかけた唇は、音を発することなく彼の口づけによって塞がれる。
反射的に腰を引くも、呆気無くしなやかな腕に絡め捕られ、やがて彼の体重に圧し掛かられた体は殆ど自由が利かなくなった。重なり合う口唇から、酒精の香りを孕んだあまりにも生々しい熱が漏れ出るたびに、脳髄を強く揺さぶられているような、得も言われぬぞわりとした陶酔感が指の先まで波打つように駆け抜ける。
引き結んだ口許を何度もついばむように短くねぶられ、そのうち詰めていた息を吐き出そうとすれば、呼吸ごと奪うように食まれた。苦しさに喘ぐ半開きの唇に熱をもった舌がぬるりと割り入り、慰撫するように咥内を弄ばれる。だがその応じ方など知るはずもなく。行き場を失った自分の舌を泳がせていると彼のそれに絡め捕られ、じゅっと音を立てて吸われた感覚に、肩がびくりと跳ねた。
このままでは駄目だと、なけなしの理性が訴えかけていた。彼と友であり続ける為には、それ以上の関係は決して望んではいけない。散々己に言い聞かせてきたことであるが、気の迷いであったなどと弁明できるような戯れの域には収まり切れていないこの現状。もはや抵抗など何の意味も為さないことは明々白々だった。これが彼に不義を働いた罰であるのならば、なんと残酷で甘やかな仕打ちなのだろうか。
荒らぐ自身の息衝とそれに混じるくぐもった声は、きっと蒙恬の耳にもはっきりと届いているであろう。耐え難い羞恥に身悶えしそうになる。
いよいよ呼吸がままならなくなりそうだと感じはじめた時、蒙恬はゆっくりと顔を離した。宙に浮遊しているかのように飛びかけていた意識が、やんわりと現実に引き戻される。息を整えながら瞼を持ち上げると、天稟の艶を刷いた眉目が、互いの鼻先がいまにも触れそうなほど近くにあった。帳のように降る薄い色の髪。高く整った鼻梁。熟れた果実のような唇。直視するのも憚られるほどの端正なかんばせに濡心が淡く融けている。
すれっからし、と心の中で独り言ちた。これほどにまで美しい男に情火を帯びた色を向けられては抵抗などできようもない。彼もまたそれを了知しているかのような態度であるから弥増しそう思う。
ずるい人。
思わず零した理不尽なそしりに、蒙恬は僅かに余裕を取り戻した様子で言った。
「君も大概だよ。自覚が無さそうなのが猶更」
薄ら笑みを浮かべながらこちらを見下ろす爛々とした瞳に射貫かれ、反射的に視線を逸らす。どうしようもないくらいの恥ずかしさに、己の頬が灼けてしまいそうになる。けれども、抑え難いその感情の中には確かに、身体の深奥から沸々と湧くような悦びもまた綯交ぜになっていて。
ずっと目を背けていた。わたしは、本当は心の底から、この男と情を交わすことを望んでいたのではないか。
「悔しいな。斉の豪商も君にそんな顔をさせたのか」
耳を擽る甘い言辞。彼もまた同じ思いをその涼やかな身の内に燻らせていたのかもしれないと、傲慢にも勘違いしてしまいそうになる。居た堪れず、桌の上に放置された飲みさしの酒杯二つに視線を移していると、骨ばった五指が降りてきて帯を緩められた。こなれたように――けれども心做しか恐々と――といった手つきで襟を左右に開かれ、下衣の隙間からはだけた腹部の、古傷のあたりにそっと硬い掌があてがわれる。
「仮に、あの男の子供を身籠ったら。君はどうするつもりだった?」
「あ……」
藪から棒に低い声で投げかけられた問い掛けに、わたしは言葉を詰まらせた。
考えもしていなかったからだ。
情を通じていない交接では子は生せない。寡婦となり、道理にもとりて不孝を犯したこの身にややが宿ることはない。それが世俗の考えであり、わたしもそう信じて疑っていなかった。
だが思い返してみれば、この胎はもう二月ほど経水を滴らせていない。長旅の疲労がたたっているだけかもしれない。月の満ち欠けに則ってやってくるはずのそれが遅れることは何も珍しいことではなかった。数日程度であれば、の話であるが。
可能性を完全に排すことができない。仮初とはいえ、一刹那とはいえ。わたしは茅焦の妻として、彼に抱かれたのだ。
背筋を冷たい汗が伝う。
「もしかして。月の障りがまだ、だとか」
あからさまに狼狽えたわたしを見て、蒙恬はすぐさまその結論を導き出した。
それから両眼を伏せ、暫し何かを思案しては呑み下してを繰り返し。ややあって再びこちらに差し向けられた双眸と己の視線が交わった瞬間、にわかに只ならぬ空気を纏った様子で、彼はわたしの肩を牀に縫い付けた。
「蒙、恬……なにを」
「が俺に何かを課されることを強く望むのならば。君が抱えるものを、共に背負うことを受け入れて欲しい」
懇願するような口ぶりに反して、彼はわたしに答えを求めていないようだった。それどころか意志を曲げるつもりは毛頭無いとでも言いたげな、強情さが態度に滲んでいる。
喧しく鳴る心臓の音が鉦のように頭蓋に響く。
わたし一人だけがしょいこんで生きてゆけば良いものを、彼は敢えて共に舁こうとするのか。不義を責め立てることもしようとせずに。この身を焦がされるような存外の幸福は全て、わたしを世の擾乱へいざなってしまった貴方がずっと抱え込んでいた罪悪感から成るものだと、知っていたとも。けれどもいくら拒んでも、決して退いてはくれなかった。この身体はただ友に苦痛を課すだけの存在であると知りながら、守られることしかできないわたしの気持ちなど、きっと彼は考えたこともないのだろう。
―― ――。
固く握り締めていた拳が、彼の手によってゆっくりと解かれてゆく。
指先は憎いほど敏感に感覚を拾うもので、ささやかな愛撫はたちまち頭の先まで駆け上ってゆくような熱と化した。それと同時に、わたしの意志を一顧だにしない彼の変わり様に身が竦むような恐ろしい感覚もまた生じてきて。どう足掻いても友としての二人にはもう戻れはしないのだという事実を、痛いほど思い知る。
「どうして。わたしのために、犠牲にならなければいけない謂れなんてないでしょう。ご自分の立場を深く理解なさってください。貴方の枷であり続けることが堪らなく苦しいのです……こんなこと、許されるはずが」
「誰にも許される必要なんてない。それとも君が君自身を許せないと言うのなら、俺が許すよ」
空々しい慰めだった。彼の瞳からすっと、光が消えた。
それでもなけなしの勇気を振り絞り、浅慮も良いところだと非難すれば、反論の代わりに蒙恬は芳しい吐息を耳朶に吹きかけた。堪らず目を瞑りながら、誰か助けを呼んでこの状況から脱しようと帳の方に視線を巡らせたが、そこに余人の気配は微塵も無い。
もはやこの邸の誰もが彼を制止することはない。咎めることもしない。唯一人、かつてその役を請け負っていた人物の声が、ふと脳裏に蘇った。
「……。……胡漸さん、もう、居ないんだ」
薄く差し込む月の光に飾り立てられた彼の美しい面貌の奥に、昔日の記憶を見る。蒙恬はじっとりと湿った掌をわたしのそれに重ね、指を根本まで絡ませながら、僅かなうしろめたさを滲ませた声で「そうだね」と小さく返事をした。