浮世夢の如し

  二十四.紅蕖の檻・前編

 兵火は熄えた。
 しかし被害程度は甚大であった。
 苛烈な戦を見事に制し、趙を下した秦軍だが、凱旋する兵卒らの中には憔悴の情が滲んでいる顔も少なくはない。戦捷祝賀というものは自国の威光を世に知らしめるために大々的に執り行うもので民衆も兵卒も諸手を上げて言祝ぐのが常であるが、不落と思われた鄴を、更には列尾、橑陽までも落とした快哉を叫ぶ者もあれば、大切な人を失った苦衷を無言の裡に切と訴えているような者もいた。
 当然だ。もとより敗戦濃厚な戦役であったという真実を知っているのはごく一握りの人間だけだった。とはいえ行軍の途で進路を変え鄴攻めを執り行うことを知らされた時点で、勘の良い者は橑陽・閼与・邯鄲に控える趙軍との交戦を余儀なくされると悟り、それと同時にこの作戦が敵方の心理を逆手に取ろうとした秦の苦肉計であることを理解したはずだ。しかしこれから自軍がどんな憂き目に遭うか、そんな空恐ろしいことを口にする者は、おそらく殆ど居なかったのではないだろうか。
 ゆえに兵卒の多くは鄴攻略の残酷さを今でも知らぬまま後悔の念に苛まれている。
 それでも軍部が当初想定していたほどの犠牲者数よりは大きく下回った。要因は間接的被害が殆ど拡大しなかったこと、つまり兵糧不足の早期解消である。趙軍の手により秦の補給線は次々と断たれていたが、唯一、斉の兵糧だけが恙無く鄴に届いた。紛れもなく己が臨淄から送り出したものだ。更には当初の予定よりも多く買い付ける羽目になったことも、結果的に鄴の立て直しに大いに寄与したと聞いている。
 王建との交渉を経てそのような功を為し、更には斉王政にとって、ひいては秦にとって累年の敵であった茅焦の勢力をあっさりと取り込むことに成功したことで、図らずもわたしは軍部尚書丞としての面目躍如を果たし、己の地歩を着々と固めつつあった。高官らの贔屓を受けて身の丈に合わぬ官位を手にした元相国の養女、などといった肩書きはもはや刷新されたようだ。さしたる手柄も無く、ただ偶然に、茅焦の寵を受けただけであるが――と一々訂正して回る気力も持ち合わせておらず、わたしは仄かな後ろ暗さを抱えながら日々を過ごすことになった。
 咸陽に帰参してすぐにわたしを呼び立てたのは昌平君であった。彼は労いの言葉を述べた後、余計な話は無用とばかりに口火を切った。
「私の元につかぬか。個人的な申し入れだ」
 つまりは食客に迎え入れたいとの打診である。
 茅焦との別れ際、彼のたっての希望もありわたしは交誼を結ぶことを約束した。客観的に見れば東国の豪商と名高い男からの寵遇を恣にしている女、その政治的価値は計り知れないといったところだろうか。逸早く囲おうとするのは当然の帰結であろう。
 明け透けなまでの冷徹さであるが、しかし軍部総司令たる人物はかくあるべしとも思った。昌平君の企てを憎んだが物事の道理を理解していないわけではない。徹底的なまでに公私を峻別する人であるからこそ信頼は厚く、この官界でどう身を処すべきかと考えた時に右丞相でもある彼の庇護下に在ることこそが最善であると、今のわたしでさえもそう思う。
「もはや呂不韋派の勢力も遠景に去った。何も憂う必要はあるまい」
「ええと……」
 押し黙ったわたしを見据える瞳が鈍く光っている。薄暮に包まれた丞相室の一画、衝立の陰に隠れるように重なる影は、傍から見れば男女の秘事の如き距離だ。しかし眼前に迫ったの男の双眸に不純さは無く、じっくりと心を暴かれるような重圧に思わずたじろいでしまいそうになる。
 実を言えば昌平君からこのような持ち掛けがあったのは初めてではない。わたしが呂不韋の元を離れて間もない頃に同様の打診はあった。ただあのときは呂氏四柱の実質的な瓦解や、毐国の一件といった事情で王宮は酷くごたついており、親呂不韋派を下手に刺激しないためにも目立った動きはしない方が得策であると判じて、有難くも拝辞したという事情がある。
 けれども既に我々が誼を通じることを阻む者は誰も居ない。そして彼の元で生きてゆくとなれば、高位高官らの煩わしい調略に巻き込まれることは避けられよう。殊に天涯孤独で、相談役もいないわたしにとって昌平君という盾は強大なものだ。今も軍師学校に寄寓し、不自由無く暮らすことができているのは紛れもなく彼の計らいがあってこそ。
 だが確実にわたしの心は迷っている。この男は洵に信じるに足る方か。志を共にし、忠義を尽くし、己の命までも預けることができるのかと。
「何が不服か」
 昌平君は返事を急かすように語気を僅かに強めた。
「そのようなことは――」
 思わず怯んだわたしが言葉を詰まらせると、暫しの沈黙の後、交わった視線は音も無くほどける。緊迫感から解放され、ふっと息を吐き出せば、虚空を見上げた昌平君がささめくように呟いた。
「……私は見果てぬ夢にしがみつくお前を、誑かすような真似はしない」
 躊躇の無い率直な物言いに、胸の奥を強く揺さぶられる。
 見果てぬ夢とは、きっと永遠にこの身に注がれることはない、尊く純な愛という名の無謬の幻想。それは亡父により植え付けられた未練。あの男から与えられた春の陽のような優しさは、昔日の悔恨と化し、わたしを今も苦しめる枷となった。血も繋がっていない赤の他人に己の命を差そうとして出してまで、浅ましくも同じ温もりを求めるほどに。
 だが傍から見ればわたしは惨めな夢想家に他ならなかったのだろう。過去に縋り、永遠に差し伸べられることのない救いの手を待ち続け、見るに堪えない汚濁に自ずと身を投げて滅びゆこうとしていた。その夢から醒めなければ、いずれ深い失望に突き落とされることに、心のどこかでは気付いていたにもかかわらず。
 昌平君はそんな本質を知って尚、姑息な物言いはせず、敢えて実直な言葉で繋ぎ止めようとしている。彼ほどの人であれば、未熟な時分のわたしを意のままに弄することなど容易かっただろうに。
 思えばずっと昌平君の挙措には陰険さというものが全く無かった。彼から与えられた苦しみも、痛みも、その裏に蠱惑的なまでの崇高な信念が滲んでいて。抗い難かった。すずやかな美貌を湛えた面立ちに似つかぬ、泥臭いまでのしたたかな生き様は、異国の公子たる衆に優れた気風も相俟り、今や諸人の輿望をになうまでに至っている。
 よしんば彼と主従の縁を結んだとして。わたしは心の底にあった身を灼かれるようなこの情を、切り捨てなければならないのか。呂不韋との関係を断ち切り、拠り所の無くなったこの身は、いったい何のために荒涼とした世界をあてもなく歩き続けなければならないのか。
 そう考えた時。胸の奥にかそけき光が射していることに気付く。
 それは友と二人、地の最果てで空と交わる溟海を臨む。乱世を流離う泡沫夢幻の如き身にとっては、あまりにも遠すぎる夢だった。わたしの心に、諦めきれぬものがまだ残っていた。
「もうひとつ、心に秘めた長年の宿願がございます。秦が中華統一を為さなければ到底叶わぬものです」
 たとえ反故にされようとも不実だとは詰らない。これはわたしだけがこの命尽きるまで抱えておくであろう尊い約束だ。あの日、初めて心を通わせた友は、しがないこの身に幾多の幸福をもたらしてくれた。そのひとつひとつが、前に進む糧となっている。今だって。
「貴方様が切り拓こうとする未来に、わたしのささやかな願いもまた存在し得るのでしょうか」
 眦を決し、したたかさが息づいた語調でそう問えば、昌平君はそむけていた双眸を再びこちらに差し向けた。それから数瞬して。
「その望蜀を叶えたくば。お前はより傲慢に、貪婪に、生きてゆくべきだ。この をも利用せんとする気概ぐらいは見せてみろ」
 揺らぎの無い眼差しでそう述べた。虚を突かれた心持ちであった。なんとしてでもわたしを抱き込まなければいけないはずの昌平君は、一切の甘言も脅迫も吐かず、こちらの存念を慮るような返答を選択したのだから。
 積年の恩顧はあろうとも権力に阿るような真似はしない。かつて貴方自身が呂不韋にそうしたように、己が大望の為ならば弓引くこともまた有り得よう――といった去就を迷う権力すらも持ち合わせていない弟子からの傲慢な問いに、昌平君は寸分も憤懣を抱かずに、師として示すべき道を照らした。
 その姿勢に胸を打たれながらも一つの疑問が生じる。右丞相という立場に在って尚、満たされぬ彼の心は、いったいどこへ向かおうとしているのか、と。

「貴方様を主と思い定めるまでの猶予をいただけませんか」
 あれが昌平君の本心であったか、はたまたわたしの心を騙すための嘘であったか。その弁別をつけるにはある程度時間が必要だと判じ、返事は数日後の朝賀儀にてと伝え、わたしは丞相府を罷り去った。なにより重大な申し出だ。慎重にならなければならない。長旅の疲れが祟って冷静でいられているかも分からない今であれば猶更だ。それでも最後の言葉だけは、昌平君の教育者としての心だけは、偽りないものであると信じたい。

 白駘の背に跨がり、咸陽の大路を駆けてゆく。時刻は午過ぎといったところだろうか。容赦なく照りつける陽光の眩しさに、煩わしさを感じる。
 軍部尚書丞という役柄、諸々の戦後処理に追われることになったわたしは、鄴攻略の戦果・損害報告書を閲するうちにとある人物の訃報を知った。楽華隊副長にして蒙恬の傅役であった胡漸だ。
 言葉が出なかった。
 間違いではないかと何度も確かめた。だが武神と呼ばれた男の奇襲を受けて大きく攪乱された楽華隊の損害は、同じ特殊部隊である飛信隊や玉鳳隊とは比べ物にならないほど酷なものであったとは、もはや周知の事柄であり、わたしはこの現実を受け止めるしかなかった。
 そのような折に、偶然にも任された蒙家への弔問。
 どんな顔をすれば良いのか分からない。この手が生みだした熾盛が胡漸の命を奪った、その事実が心に重く圧し掛かっている。
 俯き加減のままひたと手綱を握っていると、わたしの迷いを察したように白駘が歩調を緩め、こちらの様子を窺うように黒々とした目を向けた。
「ああごめん困らせてしまったね。……大丈夫。目を背けてはいけない。向き合うべきだ、臍を固めるよ」
 それに。蒙恬との約束も忘れたわけではない。
 ――君を連れて行きたい場所がある。できれば夏が良いな。
 また蓮の花が咲く頃にと告げた約束の季節は今にも去り行かんとしている。蒙恬が咸陽に戻ってきているのは知っていた。ただわたしは軍部尚書丞という役柄、暫くは官務に忙殺されるであろうし、彼もそれを了知していたのか直接の誘いは無かったが。
 本当は迷惑だと思われていないだろうか、わたしを恨んではいないだろうかと、不安は尽きない。とはいえ悩んでいる時間が勿体無い。これは仕事の一つであると割り切ってしまえば良い。
「白駘、蒙家の邸に向かおうか。長閑で良い場所だ、お前もあそこが好きだろう」
 複雑な人語を理解できるはずもない馬に、執拗に話しかけている自分はきっと冷静ではない。しかし恬然とした役人顔で往来を行くには、どうにかして気持ちを紛らわせるほか術が無かったのだ。これまで折に触れて蒙家に足を運んでいたが、はたしてここまで沈鬱な気持ちに支配されることがあっただろうか。見渡す田園風景には常に蒙家で過ごした昔日の影が付き纏っていて、それはより一層耐え難い呵責となってわたしを苛んでいる。
 大廈の門扉を叩くと、顔を覗かせた使用人たちは深々と揖をした。中には若い頃から世話になっていた顔見知りの者も居たが、どうやらわたしがであることに気付いていない様子である。というのもこの訪問は官務の一環であるからして、久方ぶりの礼装をしている。簪には連ねた珠玉、腰には刀子と鑑札。立派な高位高官の身なりだ。
 少々お待ちくださいと言い残し焦った様子で引っ込んだ彼らに呼び立てられた人物は、最初こそ角ばった挨拶を述べたが、ややあってわたしの正体に気付くなりほんの少し相好を崩した。
さんでしたか」
「陸仙さん。ご無沙汰しております。急な訪問になってしまって申し訳ございません」
「いえ。数日のうちに中央の方が弔問の挨拶に来られるとは知らされておりましたので。とはいえ良い加減、伴の一人くらいは連れてきてくださいよ。やんごとなき身の上なんですから」
「近場なのでつい」
「元従者の一件も調べがついたわけではないので、ゆめゆめ気を緩めぬようお気を付けください」
 呆れ顔の陸仙に対し、あれは斉の豪商が手を回したのだと口にしようとして、はたと気づく。茅焦がわたしに敵意を向けている人物を間諜として遣わすことが、果たしてあり得るのだろうか? あれは本当に茅焦の差し金だったのか?
「……どうかされましたか?」
「あ、いえ」
 立ち話もなんですから、どうぞ。と招き入れられた邸の中は重く湿った空気が充溢しているようで、生命の輝き溢れる盛夏の季節には似も付かぬ寂寞に包まれている。勇猛な死を善と尊ぶ者はそこに無く、異国の地に露と消えた命たちを悼む一念だけが満ちているようだった。
 楝花の散る道の深奥、主卧に隣接する立派な客間に案内されたわたしは、暫しの逡巡の後、持参した軍部からの芳翰を陸仙に手渡した。楽華隊に宛てられたものであるから本来であれば蒙恬に渡すべきだが、きっと何の気慰めにもなりやしない通り一遍の空虚な弔文のために、悲嘆に暮れているであろう彼をわざわざ呼び出すのも気が引けたのだ。
「……うまく言葉が見つからないのですが、何卒お力落としなさいませんよう」
「痛み入ります。ですが今の我々よりもさんの方がずっとお疲れのように見えますが」
 懈怠そうな語調に反して陸仙の瞳にはいつも刃のような鋭さが潜んでいる。何に対しても興味や執着を示そうとしないくせに、その実、わたしの機微の変化を目敏く見逃さない。入念に白粉を叩いたはずの化粧顔も彼の眼にかかれば素面と変わりない事実に、情けなさは覚えども懐襟を開きたくなってしまうのは、彼の言動が高い視座に基づいたささやかな優しさを湛えていると知っているからであろうか。
 それでも自分ばかりが弱々しく振舞う惨めを晒してはなるまいと、わたしは取り繕うように口端に自虐的な笑みを浮かべながら吐露する。
「皆様とお会いするのが怖かったのです。わたしは鄴攻略における秦の勝利がどれほど望み薄であったかを知っていて」
 打ち震える己が掌に思わず爪を立てた。
 鄴攻略の羽檄をしたためたあの日、わたしはこうなることを少なからず知っていたはずだ。しかし昌平君の下命を拒みはしなかった。熾烈な戦乱の世で秦という国が存える為には、決して避けては通れぬ道であると承知していたからだ。目先の小害ばかりを気にするようでは、結果的に救えたはずの者まで徒死させてしまう。犠牲を払わねばならない時がある。それらを極力、抑えるのが軍部の役目である。それでも決して零にはならない。
 斬り捨てなければならないもの。
 それらがただの数字ではないことは痛いほど理解している。
「あまり思い詰めすぎない方が良いですよ」
「ですが」
「もたされた結果のすべてを、どうして独りで背負おうとされるんです」
「陸仙さんは騙すような真似をした我々が憎くは無いのですか!」
 仕方が無かったなどと、そう簡単には割り切れなかった。
 これからもこの不肖な己に信を置いてくれた人間を裏切ることになるくらいならば、いっそ自分ただ一人が悪者となり、孤独のまま生を終える方が良いと心にもないことさえ思った。だが息を荒らげながら言葉を返すわたしに、陸仙は決して応じることはなく、努めて冷静な物腰のまま、暫しの沈黙を降らせてから口を開く。
「胡漸副長が斃れたあの日、蒙恬様はほんの数刻前までお傍に居られたそうです。龐煖の来襲は俺の陣の様子を気にかけて見に来てくださった僅かな間の出来事でした。さんは蒙恬様を責め立てますか。憎いとお思いになられますか」
「いいえ。決してそのようなことは」
「ならばさんに対する答えも同じです。一々心を砕かれていては貴女自身が徒に傷ついてしまうだけでしょう」
 陸仙はそう言い切ると目を逸らし、視線を空に泳がせたのち、ゆっくりと手元に落とした。枯淡そうな声色には幽かに慚愧の念が滲んでいるようで。わたしに投げかけてくれた言葉は、陸仙自身もまた抱える、身を裂かれるような後悔と折り合いをつけるための術でもあるのかもしれないと、漠然と思った。
 彼とてひとりの人間だ。凡百より優れた武勇や精神を持っていたとしても、悲しみや苦しみまでもが薄れるわけではない。それなのに気苦労をかけてしまった。自分がただただ不甲斐無い。
「ところで今晩は泊まっていかれますか?」
「え」
 唐突にそう尋ねられ、己の口から素っ頓狂な声が零れた。
「今から咸陽に戻るとて、閉門の刻に間に合うかどうか分かりませんよ。殊にあの騅では」
 などと迂遠に白駘を小馬鹿にしながら提案する陸仙の意図を汲んだわたしは、強張っていた頬を膨らませてわざと気色ばんでみせる。
 明り取りを見遣るとまだ急げば閉門に間に合うかもしれないといった陽の傾き具合だが、退朝刻は確実に過ぎるだろうから戻る意味も無い。軍師学校の宿舎に帰る選択肢もあったが、それは陸仙の善意を無碍にすることになる。「蒙恬様に会いに来られたのでしょう?」などと官務に私情を挟んだことを認めさせるような問い掛けをしないあたり、やはり彼はわたしの真意を把捉しているのだ。頭が上がらない。
「では御面倒をお掛けしますが一泊だけお世話になります」
「勿論です。心置きなく、ごゆっくりお過ごしください。もうすぐ夕餉の支度もできるそうです」
 立ち上がった陸仙を追うように顔を上げれば、彼は軽く揖をしてから錦繍の帳を下ろす。遠ざかってゆく足音が次第に小さくなってゆくと共に、わたしは牀により深く身を預けた。
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