浮世夢の如し

  二十三.東国跋渉・後編

※モブと絡む描写有り

 ああ。なんてこと――。
 これは何の因縁だろうか。万全と言えるほどに固めていた意志がぐらりと揺らいだ。度を失い、強い眩暈に苛まれそうになり、思わず額に手を当てる。心配そうな表情を見せた護衛が何やら言葉をかけようと近寄ってきたが、しかしなんとか気力を振り絞り、息を整えて眦を裂いた。
「もしやか」
 鼓膜を震わせる、柔らかくも芯のある声。夢と現実が綯い交ぜになる。たとえば戦国の世に身を投じ、ただ必死に生き抜いてきた七年はすべてわたしが思い描いていた幻で。本当は今もこの男の傍で、幼い頃の心の飢えを少しずつ満たしていくような安寧の日々を送っているのかもしれないと、不意に錯覚してしまうような――そんな懐かしさだ。
「茅焦様」
 王にまつろわぬ者。
 若い頃は血気盛んで手に負えなかった男。
 かつてわたしの夫であった頃の彼は、斉王建や后勝が評したその人物像と到底結びつかないものあった。他を寄せ付けぬほどに清高で、徹底的なまでに些事を忽せにしない性格で。それでいて彼の妻となれなかったわたしにも、夫としての深い情を向けてくれたような律義な人。
「息災だったか」
「はい」
 すると彼は柔和な微笑みを差し向けた。
「灼々とした華の如く。誠に美しく成長された」
 流麗な言辞を綽々と述べる声は渋みが増していて、かつて少年のような輝きと濁世への猜疑とが混然と滲んでいた瞳は、今は凪いだ湖のように穏やかだ。三十の半ばに差し掛かった彼は優雅に歳を重ねていた。

 斉王が遣わした儀仗兵から事のあらましを聞いた茅焦は、我々を快く門内へと招いた。
 かつて稷下の学士と呼ばれた知識人たちが募ったこの場所に、彼がたった一代で築き上げた邸は、相も変わらず群を抜いて豪壮な構えである。しかしかの呂不韋の別邸のような毳々しさは無く心地が良い。孤独に苛まれながら春の日永を過ごした、花散る湖面を臨む昔床しい水榭の姿も、精巧な模様が彫られた磚の漏窓が立ち並ぶ回廊もそのままで。あの頃はまだ年若い茅焦にはそぐわない古雅な趣のある造りであると、ぼんやりと思っていたが、今の彼にはこの庭の壮麗さが良く似合っている。
「軍部尚書丞――か。思えば貴女はしたたかな人だった」
「そう……でしょうか」
 まるで長い夢の中から呼び戻されたような心持ちで、覚束ない返事をする。
「幼い貴女が何をおいても優先したのが呂不韋への返恩であったことはよく覚えている。それが叶わないと知ると、情に訴えることも、泣くこともせずに粛々と受け入れたことも。憎いであろう私に、非を押し付けようともしなかったことも。忘れがたい記憶だ」
 縷々と述べる茅焦に驚いたのは言うまでもない。彼にとってあの結婚は、一刻も早く記憶から消し去りたいほどに忌々しいものに違いないと思っていたからだ。秦に戻ってからも迷惑を掛けたことを申し訳なく感じていたし、御門違いであると分かりながら一度でも彼を恨んでしまったことを恥じていた。今この瞬間も後ろめたさを抱えていて、交渉などできたものではないと、半ば諦めの境地に至っていたというのに。

 茅焦は自身の書斎の前で足を止めた。それから生来の淡白そうな表情を立ち戻らせながら振り返り、わたしの左右を守る護衛に視線を向ける。
「交渉は余人を交えず私との一対一で行わせてもらう。御二方はこれから客楼に案内しよう」
 瞬く間に張り詰めた空気の中で告げられた言葉に、然しもの護衛も警戒心を剥き出しにして、わたしを背に隠すようにぐいと立ちはだかった。恰幅の良い兵に比べるとますます細身に見える茅焦であるが、臆する様子は微塵も無く、不敵な笑みを浮かべて。
「多対多では非効率的であるし、なにより、武器を携えた兵の前では腹を割って話をするのも憚られる」
 と彼らの腰に提げられた剣を横目で見ながら、泰然とそう言い継いだ。交渉の破綻は即ち斉から兵糧を運ぶ策を失するということである。いかにも足元を見ているような態度であるが、ここで激情に駆られてしまえば全てが水の泡だ。
「うちの者がとんだご無礼をつかまつりました」
 折り目正しく詫びて、こちらを案じる衛兵に一瞥を呉れると、わたしは案内されるがまま茅焦の書斎へと足を踏み入れた。次いで部屋に入った茅焦が後ろ手に重厚な帳を下ろせば、外の音はぴたりと聞こえなくなった。隔絶された不穏なしじまの中に、凪いだ湖にぽつりと浮かぶ孤島に、取り残されるように二人は立っていた。
 仮にも他国要人との交渉の場としては、この部屋はあまりにも不相応であると言わざるを得ない。天井は低く、蚕棚のように段々と並べられた書架が圧迫感を助長している。窓には薄い布が掛けられていて、室内は薄暮のような青みのある仄暗さに包まれていた。光源は四面に紙の貼られた灯のみであり、文机と榻がそれぞれぼんやりと浮かび上がっている。茅焦は暇があれば大抵はここで過ごしていることが多かった、というのは七年前の記憶であるが、今もそれは変わりないようだ。綺麗に整頓されているとも言い難い調度品の数々からは生活感といったものが僅かに滲んでいる。何より茅焦の袖の裡からずっと漂っていた香の匂いが、この部屋には強く充ちていた。
 彼は昔からこういった手狭で質朴な場所を好むきらいがある。警戒心が強い元来の性なのだろう、貴人らしくもなく人を傍に置くことを厭い、有り余る富をひけらかそうという気概も感じられない。榻の下には護身用であろう一本の戟が、その穂先をぎらりと光らせながらじっと身を潜ませている。
 孤高な人だと思っていた。だからこそ彼が物騒な集団を作り上げていることが意外でもあったが。
「あの、貴方様が千万の私兵を保有しているというのは事実なのですか」
「ああ。元は私の舟を襲う野盗紛いのならず者だったが、味方になってくれれば心強いと金で雇ったのが始まりでね。今では軍閥と呼ばれるまでに規模が膨れ上がってしまった」
 商人である彼にとってはそのならず者たちもまた交渉相手であったということだろう。
 悠々と寛げるほどに大きな榻に促されて腰掛けると眼前には一幅の布が広げられた。三晋の地図である。茅焦はそれからわたしの隣に座り、口を開いた。
「――さて。済水から河水に至るこの辺りは貿易の要衝でもあって。つまり貴国の軍に兵糧を送るとなると一帯の水路が封鎖され、貿易業をなりわいとしている私は莫大な不利益を被るわけだ」
 穏やかで、そして柔らかな語調。地図を指の先でなぞりながら、まるで子供に何かを諭すように噛み砕きながら述べるその意は、同伴者と引き剥がされて一人で慣れぬ交渉の場に立たされ、小鹿の如く畏縮してしまっているわたしへの皮肉であるのかもしれない。現に王命に背くわけにはいかぬと茅焦の条件を呑んだは良いものの、わたしはまだ彼を説得しうる交渉材料を一つも思いつかないでいた。
「加えて私は建王に何の義理も無いのだ。むしろ恨んでいるよ。民草の譎諫も、もはや届かず、あの貪婪な宰相の意のままにこの国は凋んでゆく」
 茅焦は斉王を忌むようにそう語ったが、その真意は王を唆す后勝と、そして后勝に賄賂を贈る秦への謗りであろう。自国の所業が全てこの男に露見しているのだと悟り、事ここに至ってわたしは殆ど茅焦の説得を諦める他無かった。
「少し話が逸れてしまったか。畢竟そのような私に秦国が対価として差し出せるものは何だ。貴女の考えを聞かせて欲しい」
 返事はできなかった。舌が固まってしまったかのように寸分も回らないのだ。首に提げた金印の重みを意識するたびに頭の中は真っ白になって、言葉に詰まったまま、唇を震わせながら乱れた呼吸を繰り返す。この男を説得するなど、土台無理な話だったのかもしれない。このままおめおめと斉王のもとへ戻り寡兵を連れて船を出すよりも、作戦の大元を切り替えて燕との交渉に向かうが最善か、しかしそれではますます日数がかかる。否それよりも先ずこの状況を切り抜け、一刻も早くこの邸を去らねばならぬ。秦に反感を抱いているこの男の元に長居するのは危険極まりない。
「答えられないと。そうか。その様子だと本当に私を弁舌だけで説得するつもりでここにやってきたようだ」
 途方に暮れて放心しかけている己の心をなんとか奮い立たせようとしていた時、茅焦が唐突に、決して穏やかではない瞳でこちらを見た。
「……茅焦様?」
「秦に戻ってからの七年、貴女の身辺は過剰なほどに守られていた。所在すらも掴むことが困難なまでに」
 辞去しようと及び腰になった瞬間、茅焦はわたしの肩をトンと押した。まるで高所から突き落とされたかのような落下の感覚。姿勢を崩したわたしは堪らず榻に倒れ込んだ。尋常でない胸の鼓動を感じながら現状を理解しようと、無意識に止めていた呼吸を取り戻しながら考えを巡らせて暫く経って、漸く彼が放った言葉の意味を察すると同時に己の顔からみるみる血の気が引いていくのが分かった。
「私はずっと貴女を探していた。幾度も密偵を放ち、時には自ら咸陽へ赴き、敢えて呂不韋殿を河南へと遠ざけもした」
「斉人の諫上で、太后様の幽閉が解かれ……呂不韋様が河南へ追いやられたというのは、まさか」
「私のことだろう。あの頃はかなり自棄になっていてね。それまで母太后関連で秦王に面を犯した二十人余りが獄へ下っていたらしいが、酒宴の席であったのが功を奏したか運良く私は捕らえられずに済んだ。そればかりか客卿の地位まで与えられた。けれども呂不韋を動かせば養女たる人物の話も出てくるだろうという目論見は外れてしまったから、辞して斉へと戻ってきたわけだが」
 一度手放した人間をどうしてまた探し出そうと思い立ったのか、その理由までは分からない。しかしわたしを捉えた彼の双眸に、高潔であった彼らしからぬあられもない歪んだ情が滲んでいることが嫌でも理解できてしまった。初めて閨を共にした時の、張り詰めた氷のように冷え切っていたあの顔貌とは似ても似つかない。わたしの自由を奪い、獲物を仕留めた肉食獣の如き悦に入った眼でこちらを見下ろす茅焦は、もはや若くして豪商となったその体面を損なった、色に狂わされているただの男に他ならない。
 覆い被さるようにゆっくりと顔を近づけた彼は、わたしの唇に指先をそっと這わせながら憐れみの滲んだ笑みを浮かべる。
「貴女を幾年と守ってきた人物はきっと私のそんな存念を知って斉へと遣わしたはずだ。水軍を動かすとなれば、私への接触は避けられないと踏んで」
 残酷な推断を突きつけられ、途端にまざまざと思い起こされるのは、誰よりも自分を守ってくれていたはずの、昌平君のかんばせだ。
 違う――! と声を荒らげて否定したかった。だが、わたしを斉に遣わすと決めた昌平君の意を不思議に思わなかったわけではない。未熟な自分に亡き蔡沢の代わりが務まるはずもなかったのは明白で、しかし他でもない恩師の頼みであったから期待に応えるべく引き受けたものの、他に適任者が山ほど居るだろうにといった疑懼の念はずっと心に蟠っていた。ただ、見ないふりをしていただけ。
「その者は誰だ。幽王のまませか」
「先生は――」
「あの男を心から信じていたのだろう。それなのに人身御供にされた。ああ……いたわしい」
 昌平君は呂不韋の養女たるわたしを厭わず、確固たる理念のもと一弟子として育て上げてくれた。人爵にありつかんとする暴富に差し向けられた謂れのない悪辣な批評から、身を挺して守ってくれたこともあった。わたし個人を認め、知識を与え、数多の困難に打ち勝つ術を教えてくれた。その姿勢は彼が抱手たる呂不韋と袂を別っても、寸分も変わらなかった。だからこそわたしは心を預けると決めたのだ。
 危急存亡の秋であることは承知している。それでも仮に、仮に昌平君が茅焦の心に気付いてこの策を立てたというのならば、騙すような真似などせずに、せめてわたしに打ち明けようとは思わなかったのか。
 憔悴し切った心に付け込むように、茅焦はつとめて優しい手つきでわたしの髪を撫でた。
「ご、御夫人が悲しまれるかと」
「生憎と独り身だ」
 すげなくそう言われてしまい、なけなしの抵抗は虚しく散った。
「漢江の対岸で水を浴びる佳人の如く。貴女に触れたいとずっと願っていた。卑劣で身勝手な男だと非難してくれても良い。ただこの一夜だけは、夢を見させてくれないか」
 詩に準えた婉曲的な言葉であったが、その意味を察せられぬほど青くはない。
 妻としてかつて果たせなかった務めを、七年越しに為すだけ。もはや女として生きていくことはないであろう自分に、生まれ持った性としての最たる幸福を、彼のような立派な人に手ずから与えてもらうのはきっと悪いことではないのかもしれない。尤もこの身体ひとつで何万もの自軍兵を救う術を得られるのならば、むしろ僥倖である。これまで固く守り抜いてきた操であるが、誰がためにということはなく、ただ世の貞操観に則り生きてきたまでのこと。
 けれども心のどこかでまだこの現実を受け入れられていない理由があるとするならば。清廉な君にと翡翠玉を贈ってくれた友の厚意を、裏切ってしまう呵責の念だ。彼が好いてくれたのは少女の砌のようなあえかで純な自分であるのだろう。しかしそんな友の命を僅かでも救える可能性があるのならば、心を殺し、春を鬻ぐ女のように相手の惚れた弱みにつけこんで形だけの睦言を述べることも厭わない。そもそものわたしは、呂不韋の養女となった過去が無ければ、そういった手段をもって露命を繋いで然るべき、不才な人間だったのだから。
「貴方様が諾してくださるのならば、舟も出せましょう」
 心にもない艶言だ。
 きっと茅焦の慧眼はわたしの思惑などとっくに見抜いているはずだが。
「今日この瞬間ほど、夫婦のままでいなかったことを惜しいと思ったことはない」
 そう細い声で呟いて、己を憐れむような悲しい微笑を浮かべただけだった。

 茫と天井を見上げていると、視界の端には湯浴みを終えた茅焦が、しっとりとした肌に薄い夜着を纏わせながら立っている。既に日は落ち、都の喧騒もとうに過ぎ去った。わたしは今にも閉じようとしていた重い瞼を擡げて、彼に問う。
「貴方様の望みを叶えたら鄴に兵を送ってくださるのですか」
「ああ。約束しよう」
「わたくしどもの要求をすべて呑んでいただけると」
「そうだ」
「感謝申し上げます。ではご随意に。婦節に欠けた女で宜しければ」
 きっと茅焦から見た今の自分は奸婦の如き厭らしさの滲んだ笑みを浮かべているに違いない。わたし自身でさえ、己がこんなにも濫りがわしい人間であったことに、そして人を良い様に利用することに罪悪感が微塵も湧かないことに内心驚いている。或いはとっくに、どこまでも実直であった過去の自分は擦り切れてしまっていたのかもしれない。
(――過去、か)
 いつだって思い返す友と過ごした美しい青春は、もはや遠い夢の中にある偶像で。年月を重ね、罪を重ね、穢れたわたしにはもう二度と得られぬもので。それでもこんな時にでさえ瞼を閉じれば思い浮かぶのは、在りし日の二人の姿。それを失うまいと、必死に手繰り寄せる、どこまでも未練がましい自分。
 二人分の体重を乗せた黒檀の榻が音を立てて軋む。人生の朱夏に差し掛かった男の、苦み走った顔が目の前にある。彼がわたしの額にかかった細い髪を指の先で掃った。肌を伝うむず痒さは埋火にすらなり得ない。この優しさに溺れてしまえたのならどれほど良かったことか。
「私はもう貴女の生き様を決して否定しない」
「それは重畳の至りです。御礼に荑でも摘んで差し上げましょうか」
「荑は茅の花だ」
「ええ。存じております」
 頭の中が冴えている。茅焦を悦ばせる言葉が口を衝いて出てくる。思考が、何の感情にも邪魔をされていない証左であろう。思わず虚しさに拉がれてしまいそうになるが、戻れない過去に縋る二人には斯様なくだらない慰め合いがお似合いだと、わたしは衷心を押し込めるように目を閉じた。

 明朝。いつの間にか四方を帳に覆われた柔らかな褥の上で眠っていたことに驚きながらも、ゆっくりと上体を起こすと、隣で横たわっていた男もまた瞼を開けた。
「起きたか。暫し待て。湯を用意させよう」
 彼が部屋の外へと声を掛けると、暫くして湯が張られた玉の盤が運び込まれた。既に夜明けは近いようで、帳を払えば薄明の柔らかな光が辺りにそっと満ちている。わたしは茅焦の傍を離れ粛々とした動作で身支度を整えはじめた。衣を替え、髪を結い、白粉をはたいて臙脂を塗る。一刻も早く登朝し、趙に兵糧を送る手筈を取らなければならない。
「茅焦様も共に王宮へ参りますか?」
「いや。私はあの男と相容れぬ。顔を合わせたとて良いことなど一つも無い」
「左様ですか」
「奴は徳を持たぬ暗君だ。母君の君王后が身罷ってからは后勝の献言にしか耳を貸さぬ。他国に諂い金に固執し、まるで商人の真似事のような専断ばかりを繰り返す。愚かとしか言いようがないだろう」
「私兵を集めている貴方様も為政者の真似事をしていると思われているやもしれません」
。何が言いたい」
 斉の豪商という大層な肩書き以前に、彼もまた一人の男であるのだと昨日の晩に知ってから、わたしは茅焦の本質を掴みかけていた。
「かつて斉は五国の合従軍に攻められ、たったの二城を残したすべてを奪われた。それを父祖が必死に抗い、憎き燕から領土を取り戻したのだ。我々もまた命を賭してこの国を守らねばならぬ」
 商人は往々にして節義に乏しいものだが彼は違う。思えば昔からそうだった。
「でしたら襄王の太子は猶更でございましょう。愚見ですが斉王は国と言う枠組みではなく、この地に生きる民を存えさせさせることを強く願っている。だからこそ茅焦様をも守ろうとしているのです。尤も反乱分子となり得ると判じられているのならば、貴方様はとっくに都を追われているはずですから」
 そこまで述べたところで、隣に立った茅焦がふとわたしの頬を摘まむ。細められた目には幽かに、幾度となく愛の言葉を囁かれた夜の余韻が滲んでいて。
「柔らかいな」
「? あの」
「終いだ。貴女が能弁であることはよく分かった。しかし後朝はもう少し甘やかな雰囲気でいたかったものだが」
 一晩だけの約束ではなかったのかと言いかけたところで、わたしは自分が如何に無粋な人間であったかを少し反省した。

「良い風だ」
 城雉から臨淄の都を眺めやった斉王は悠々たる面持ちでそう述べる。城下では禁兵と茅焦の私兵が入り混じり、国庫から兵糧を次々と運び出していた。その列は陽が南天を回った今でも絶えることなく続いている。初めのうちはそれこそ安堵と達成感に溢れていたが、暫くして、とうに買い付けた分の食糧は運び終えたはずであることに気付いたわたしはこわごわと問い掛ける。
「斉王。恐れながら、二十万の食糧とは申し上げましたがあの量は」
「秦は斉の兵糧を倍の値で買うと確かに言ったであろう」
「はい」
「ならば価値が落ちる前に売れるだけ売っておかねばのォ」
「――あ」
 渺々と広がる空の如く晴ればれしい顔で斉王は答えた。同時にわたしは己の詰めの甘さに思わず頭を抱えたくなったがもう遅い。人夫も、駄馬も、船もすべて手配済みである。
「数か月、はたまた半年は持つであろう。言質は取ってあるぞ」
「ご心配なさらずとも反故には致しませんが」
「うむ。まこと良い商談であった。きっちり鄴まで届けてやろう」
 さすがは商人気質の吝いこの男、手加減というものがまるで無い。交渉の裏でしっかりとこちらの穴を突いて最大限の利益を上げようとしていたことを、見抜くことができなかったのは自分の手落ちだ。
「かなり足が出ましたね」
「鄴を落とせたとしても補給線はとうに断たれているはずなので、秦の要地として立て直すためには、食糧はあるに越したことはない、という言い訳で先生はご納得していただけるでしょうか。はあ……叱られてしまう」
 この兵糧がすべて余らず役に立てば良いのだが、永遠に続くかと思われる兵士らの列を見ているとそんな希望も失せてくるというものだ。それよりも限られた軍費を浪費したことに、昌平君がたいそうおかんむりになるであろうという悪い考えばかりが脳裏を過る。
 とはいえなんとか任務は完遂した。あとはただ彼らの武運を祈るのみだ。雑念を振り払い、わたしは遠い戦場に在る人を想いながら瞳を閉じる。
 斉王はそんなわたしの横にずいと歩み出ると、心底感心した様子で、蛇を咥えた唇をわずかにたわめる。
「父の威を借らずとも大業は為ったな。見事なり。呂不韋の娘」
 つと吹き上げた一陣の風を受けたその声はついぞ誰の耳に届くことはなく。春霧の晴れた天際に、吸い込まれるように掻き消えていった。
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