空気を、大地を、大きく揺るがすような喚声が絶えず沸き上がる王都の大路。路傍は溢れんばかりの人で埋め尽くされ、中央には戦地へと向かう兵士たちの列が蜿蜒と伸びている。その手に握った鑓や剣、そして錦の御旗を高々と掲げながら声援に応える彼らの顔を、わたしはついぞ直視できなかった。
王翦と楊端和へ羽檄を飛ばしてからおよそひと月が経過した。鄴攻略のあらましは恙無く彼らへと伝わったようである。それから数日もしないうちに徴兵がなされ、咸陽には多くの人が集った。しかし彼ら兵卒は勿論、殆どの将校でさえ戦略の全容はおろか大綱さえも伝えられていない。昌平君が導き出した、秦が中華を統べるための唯一の軍慮はあまりにも、あまりにも残酷なものだ。その事実を知らぬまま、数多の命の灯火は異国の地に露となって消えてゆく。
「随分と険しい顔をしているな軍部尚書丞」
「……!」
唐突に名を呼ばれ、驚きつつも声の方を見遣れば、そこには介億が立っていた。どうやら人が近づいてくる足音にすら気づかぬほど思い悩んでいたらしい。彼はわたしの隣に立つと、その口許に薄らと笑みを浮かべながらこちらに一瞥をくれた。
「空閨をかこつ寡婦も斯くや、といった陰憂ぶりだ。想い人はその腰に提げた翡翠玉をくれた相手か?」
長らく艶聞も無かった貴様が思い定めた男は誰ぞ、などと白々しく宣うこの男は、殊にこういった色沙汰の話題になるとやたらと首を突っ込んでくる。これがかなり面倒くさい。ついつい反論しようものならば、上手いこと言葉尻を捉えられ、曲解されて、最終的にはありもしない事実をでっち上げられる羽目になるから、初めから相手をしないのが最善であるとは軍師学校在籍時に培った経験則だ。
「ところで介億先生。ご用件は」
「わっはっは。相も変わらずつれんなあ」
一頻り呵々と笑った介億は深い息を吐くと。
「殿がお呼びだ」
踵をめぐらしてこちらに背を向けながらそう告げた。着いて来いということであろう。
介億と共に外へ出ると官衙の前には介億のものと思わしき軍馬が一頭と、軒車が用意されていた。促されるまま乗り込むや否や急くように発進した車は、介億の先導のもと人だかりを避けるように小路を抜け、この城の奥へと向かってゆく。行き先は禁宮である。嫌な汗がつっと、背を伝った感覚がした。
どこか残冬の冷たさが残った風が轟々と吹き付ける。ここは巌々たる王宮を結ぶために、地上から遥か高い場所に架けられた石造りの橋。四面を遮るものは何ひとつ無い。眼下には大路小路が整然と交わる美しい都の情景が敷かれていて、絡繹たる人々の姿かたちは殆ど不明瞭となり視界に広がる色彩の一部として混ざり合っていた。
「を連れて参りました」
「ご苦労」
介億は流麗な挙措で主である昌平君へと手を包むと早々に辞去した。
眼前には二人の男の姿があった。昌平君の肩越しに伺えるその特徴的な容貌に、わたしは思わず肩を竦める。
(…… ……王翦将軍?)
どうして自分がこの場に陪席しなければならないのだろうか。そんな疑問を抱いていると、仮面の奥に潜んでいた王翦の眼が、ぎろりと動き、こちらを捉えた。視線だけで人を抉り殺せそうなほどの鋭さをたたえた男を前に、わたしは己の名を述べることもできぬまま緘黙してしまう。
「それが噂の、子飼いの娘か」
昌平君は否定も肯定もしない。もとより答えを求める質問ではなかったようで、王翦もそれ以上、語を継ぐことはしなかった。
―― ――。
それから暫しの沈黙の後、昌平君は密やかな声でわたしにとある任務を課した。王翦はその間、一度たりとも口を挟むことは無かったが、まるで私と昌平君のやり取りのすべてを見定めんとするような意志を潜ませた眼でこちらを見ていた。その振舞いから、恐らくこの策を発案したのは昌平君ではなく王翦であるのだろうとは想像がつく。戦場では怖ず臆さず奇策に打って出る将であるとは知っていたが、どうやらその才は用兵術だけに留まらないようである。
「委細承知いたしました」
どうにか事の全容を理解したわたしがそう述べると。
「くれぐれも遺漏なきよう」
王翦はそう念を押すように告げて去って行く。朱の外套をはためかせながら遠ざかってゆく姿を見送ると、緊張に締め付けられた胸が少しばかりすいた。右丞相を相手に慇懃さの欠片すらも見せない態度を取る武官など見たことがない。尤も驚くべきは斯様な男が何年と蒙驁の下に就いて鳴りを潜めていたことだろう。首斬りとの異名を持つ桓騎将軍然り、蒙驁はどうやってあの曲者たちを自身の副官という箍に嵌めていたのかは今となっては知るべくもないが。
ようやくあの威圧から解放されたことに安堵の息を吐いて昌平君の方を見遣ると、ゆるりと目がかち合う。もはや先日の、書楼での出来事による気まずさは遠くにあった。
「……先生。それでわたしはどうすれば良いのでしょうか」
「まずはお前に渡すべき物がある。それから急いで旅支度をせねばな」
昌平君はそう言って歩を進めた。
どうしてわたしがこのような役目を拝することになったのだろう、適任者など山のように居るだろうに。と腑に落ちぬまま、重い足取りで昌平君の背中を追う。
昌平君は確実にこの内城の深奥へと向かってゆく。その道中の景色を、わたしは確かに覚えていた。人目に触れぬように設けられた複道廊。上は帝の通る道。下は臣が通る道。やがて辿り着く場所は同じであるにも関わらず、画然と分かたれた造りはここを通る者の尊卑を、金枝玉葉たる御身の崇高さを如実に顕している。
「この先は大王様の御座所では」
「そうだ」
無情なまでに簡素な返事だ。いよいよ頭を抱えながらこの場に蹲りたい気持ちになった。訪れるのは合従軍との戦以降であるが、あの時は軍師学校で世話になっていた馴染みの御歴々や、呂不韋の姿もあった。しかし今は、この身ひとつ。昌平君は正殿の一歩手前で足を止めた。手助けはしないという意思表示である。この場を凌ぐことができなければ到底果たし得ない命をわたしに任じたがゆえに。
百官が坐してもなお有り余るほどに広い空間には、玉座に腰掛ける嬴政と近侍する高官の男が一人居たが、その男もわたしが参進すると嬴政へ何かを奉献して下がっていった。厳かな静謐に包まれた空間の中で黙々と跪拝するわたしの方へ、金繍のあしらわれた沓をカツンと鳴らしながら嬴政が歩みを進める。
そっと面を上げる。これほどまでに間近で御尊顔を拝したのは初めてだ。百官の末席であるわたしは、朝儀の際も常に嬴政から最も遠い場所に立っていた。
合従軍戦の時も御目通りはかなったものの、兎に角それどころではないほどの混乱の渦中にあり、あまりはっきりとは覚えていないが、呂不韋の傀儡と噂されていた彼が禽獣のようなしたたかさを宿した瞳をしていたことに驚きを感じたことだけは記憶している。
早いものであれから約五年もの時が経った。
加冠の儀を終えた嬴政は王の気色を確かに纏っている。黒々とした瞳は星の満ちる天の如く煌めき、高雅な気魄が旺に溢れていた。この国の辺陲にまでとどろくであろう鮮烈な輝きは、いずれ中華の果てまでをも包み込む光となり得るかもしれないと、漠然と思った。それは凡庸な為政者が到底持ち得るものではない。自国に豊かさを生み、さらに他国までその勢威を及ぼす者の所業だ。そのような者を覇王と呼ぶ。
――我らが王は中華統一という壮図を抱いておられる。
蒙恬の言葉が思い返される。
ああ確かに。無学なわたしが故国の海へと帰ることを茫洋と思い描いていたあの頃にはきっと、既に嬴政はこの中華を統べることを強く願っていた。
「。これは長らく剛成君蔡沢に預けていたものだ」
嬴政はそう告げて両の御手を下ろし、わたしの首に金印を掛けた。亡き蔡沢がその半生を賭して築き上げたものを決して無駄にはするまいと、叉手を解いてそれに触れながら、わたしは再び平伏する。
「密旨ゆえ充分な警固はつけられぬが、持ち得るすべてを賭して責務を果たし必ず咸陽に帰還せよ」
「畏まりました。大王様もどうか御心をお強くお持ちあそばされますよう」
すると嬴政は引き締めていたその表情を僅かに柔らかく綻ばせながら、小さく頷いた。
正殿を罷り去り、高まっていた緊張を解すように外の空気を深く吸う。わたしを待っていたのであろう昌平君の傍には既に旅衣に身を包んだ彼の麾下の姿があった。昌平君が軽く目配せをすると、その麾下たちは数歩下がる。
「まずは兵たちに紛れて金安へと向かい、道中の洛邑を過ぎた辺りで離隊し河水の南岸へ渡る。あとはただひたすら済水に沿って東へと進め。事の仔細は大王様と王翦、そして私のみが共有している。お前に付する護衛は目的地さえ知らぬゆえくれぐれも道に迷わぬように」
「承知いたしました」
「既に多くの間諜があの中に紛れ込んでいる。お前の耳ならば言葉の癖や訛りで見分けはつくだろうが野放しにしたままで良い。ゆめゆめ危険な真似はせぬよう。ときに、崑崙殿での件はよもや忘れていまい。お前はこうして釘を刺しておかねばすぐに危険を冒したがるきらいがある」
「はい。仰る通りです」
「任務の遂行を第一に。以上だ。健闘を祈っている」
―― ――。
秦を出立して幾日経っただろうか。
日を追うごとに歩む地形は緩やかに、傍目に見える済水は広大になってゆく。地の果てが近い。潮の匂いが薫る風に、えも言われぬ懐かしさがこみ上げる。
やがて辿り着いたのは咸陽から遥か東に位置する斉の国都・臨淄。地名の通り、東に淄水を臨むこの城を訪れたのは二度目だ。一度目は齢十五の頃、この城に居を構えていた男の妻として。狭い花車の中に押し込められ、窓を開けることも許されぬまま連れてこられた。だが今は嬴政の密旨を賜り、自ら馬を御し、この異国の地を踏みしめていると思うと感慨深いものがある。
金安への到着後すぐに商賈に身を窶したわたしたちは、韓、魏の関隘もさほど怪しまれることなく無事に抜けることができた。まず地方の関所は近くで戦でも起こっていない限りは概ね検問が甘い。符の偽造もそう簡単には露見しないし、何かあれば最悪、賄賂を渡せばよい。堂々としていれば疑われにくい。地方官吏として洛邑の城門を管理していた時の経験が大いに役立ったと言えるだろう。まごうことなき濫用であるが。
「ご苦労様でした。明朝に斉王のおわす宮城へ伺候します。今日はこのまま宿を取りましょう」
「御意」
昌平君宛に目的地に到着したことを報告するための鴿を飛ばし、その日はすぐに褥に潜ったが中々寝付くことができなかった。
啓明が東の空に輝き始める頃に起き出し、泥と駄獣の臭いが染みついた身体を水で清めてから、荷の中に紛れ込ませていた経錦の衣とぬいとりがあしらわれた帯を巻き、香包を潜める。これで見て呉れはだいぶ良くなっただろう。少なくとも商賈と偽って関所を不正に潜り抜けてきた不届き者の一派には見えまい。
「軍部尚書丞」
護衛のひとりがわたしの髪を丁寧に梳きながら口を開く。
「王候が相手の御交渉、心得などはおありなのですか」
「いえ」
わたしは小さくかぶりを振った。
そもそも洛邑へ赴くまでは咸陽の外へ出ることさえ厳しく制限されていたのだ。敵国の兵と接触しただけでもこっぴどく叱られていたほどであったのだから当然の如く外交などしたこともない。焦眉の急であるから「誰でも良かった」のかもしれないが、それにしたって宮城には高位高官らがいくらでもいたはずだ。だからこそ昌平君が他より一籌を輸するわたしにこの任を課した意図が未だ掴めずにいる。
「しかし亡き蔡沢様が築き上げた誼がございます。加えて交渉材料も先生がきっちり用意してくださりました。御心配には及びません」
「であれば良いのですが。風変りな王であると仄聞しております。何卒お気をつけください」
きつく引詰められた髪に簪が挿し込められる。冷ややかな金属の温度が頭皮に触れた。
翌中午。臨淄城内、客殿。
秦王の特使たる証である金印を禁兵に提示すると、いともあっさり宮中に入る許可が下りた。嬴政の親書を献上すると玉座の傍に控えていた宰相の后勝がそれを受け取り、斉王・建に向かって声高らかに読み上げる。
書には要約すると「趙領へ兵糧を送って欲しい」との旨が記されている。斉王は冕板から垂れる珠玉の奥で、咥えた蛇の頭をねぶりながら、こちらに視線を向けて問うた。
「秦の兵力は」
「およそ二十万でございます」
王翦、楊端和、そして桓騎の三将率いる軍の規模はかつての合従軍戦に匹敵するまでに膨れ上がっている。わたしは自分が口にしたその数字が恐ろしかった。
「必要な兵糧の買い上げに加え千金。成功すれば二千金。后勝、斉の儲けは如何ほどか」
「は。単純に見積もっても饒安を失った損害分はくだりませぬ」
饒安とはかつて合従軍から離反した斉がその報復として攻め落とされた城の名である。
わたしは后勝の言葉を受けた斉王の眼に一瞬、愁悽の色が奔ったのを見逃さなかった。徹底的なまでに商人気質の王であるとは聞いていたが、利の追求に徹しきれていないところは為政者らしい。
「何処の城を攻める」
「鄴を落とします」
「それがまことならば愚計だ。邯鄲と橑陽から何層倍の兵が送られよう」
「
太公望になぞらえた修辞である。斉王はくどくどしい御託は好まないであろうが、しかしあまりにも生硬で曲が無い弁舌を好意的に捉えるほど愚かしくはない。
とはいえ外交術に長じているわけではないわたしの言葉だけでは斉王は易々と肯んじないだろう。
そこで股肱である后勝の輔弼が必要となる。実にここまで昌平君の読み通りであることも恐ろしい。后勝に故ありげな視線を遣ると、彼は咳払いをひとつしてから威儀を正して口を開いた。
「して特使。兵糧の買い値は」
「倍で、いかがでございましょう」
「ほう」
語気を僅かに強めてそう告げる。
斉の協力を得るための交渉材料は多々あるが、殆どは我々の味方をしなければ貴国は近く亡ぶという脅しに近いもの。秦とて斉との誼を廃したいわけではない。最悪、蔡沢が外交を進めていた燕に助けを求める手も無くはないが、それはあくまで最終手段だ。斉がこちらの要求を素直に呑んでくれるならばそれに越したことはない。であれば利欲に訴え続けるべきだ。
「出穂を過ぎて間もないこの時季に倍の値で買い取らせていただくと重ねて申し上げます。まもなく麦秋を迎えれば一日毎に損が生じてゆきましょう。どうか御応諾を賜りたく存じます」
努めて沈毅な口吻で言上する。
斉王は左右の者に視線を巡らせ、それから暫くわたしの眼を見つめると、口元を緩めながら報答した。
「よかろう。ただし条件がある。……とその前に腹が空いたな」
「大王様。饗宴の準備は既に整ってございます」
「うむ。ご苦労」
臣を侍りながら遠ざかってゆく背を見送ると、その場にただ一人残った后勝が辺りをはばかるようにしてわたしに話しかけてきた。
「秦王が退嬰的で野蛮な継戦論者であったのならば、大王様は此度の要請を斥けておられたことだろう。感謝するが良い」
「重々了知しております。加えて后勝殿には謁見の御取り計らい感謝申し上げます。御謝儀は秦が勝利を収めたあとに……改めて幣物を添えて使者を再応させるとの言伝を預かっておりますゆえ暫しお待ちを」
昌平君が用意した交渉材料とは、ひとつが兵糧を倍の値で買い上げる許可と別途報酬の三千金。そしてもうひとつが后勝への賄賂である。かの聡明な君王后の族弟が――それも周囲に推挙され宰相となった男が――裏で敵国と癒着しているとは、斉王も不憫であるとしか言いようがない。
斉都・臨淄は王族が住まう小城と庶民が暮らす大城に分かたれている。大城は三十里もの外壁に囲まれており人口は三四十万にものぼる、中華屈指の経済都市である。路は車の轂が擦れ、人々の肩が触れ合うほどにまで狭い。衽を連ねて帷となり、袂を挙げて幕となり、汗を揮って雨となるとは斉の賑わいぶりを見た遊士の有名な言葉だ。
対してこの小城は、そんな溢れんばかりの人がひしめく市井の賑々しさから隔絶された、静かな場所。辺りには桑や麻の畑が広がる平野、遠くに牛山、峱山、稷山といった山岳が聳える、中原随一の絶佳を横目にわたしは主客の席に座した。
眼前には海の美肴や珍酒がずらりと並べられていた。くゆる海の薫りが鼻腔をつく。斉王にすすめられ膳に箸をつけ、少しずつ口へと運ぶ。海産物のみならず、肥沃な土壌に恵まれた斉で育てられた穀物や、野菜、更にはそれらを食らって育った鶏や猪までもが五臓六腑に染み渡る滋味深い味わいだ。
「斉の飯は美味かろう」
堂々とそう述べる斉王の口からは変わらず蛇の頭部が肥った舌のようにぬるりと這い出ている。蛇蛻ではない。光を失った白い両眼と、浮き立った鱗が酷く不気味である。やや食欲が削がれたところで、わたしは本題へと戻るべく切り出した。
「斉王。先の件でございますが、条件とは何たるか御教示を賜りたく」
「そうであった。秦軍に分け与える兵糧は斉の国庫から補えよう。だがそれらを鄴へ届ける輸卒は充分に出せぬのだ」
「なんと……」
とんだ吝嗇者だ。この都に住まう男子は二十万をゆうに超える。一戸から一人ずつ募っても七万の軍になろう、という反駁が口を衝いて出そうになったが、仮に秦が趙に敗れて領地を西まで押し戻されることがあれば斉は魏や燕との戦に備えなければならない、と言われてしまえば返す言葉が無い。
どうするべきか。鄴攻めはまさに奇を衒った策である。秦が戦に勝つ根拠も、確信も、そのようなものはどこにもないのが事実だ。とはいえここで妥協して少ない輸卒で強行突破を図ろうとしたとて、途中で趙軍に露見すればそこで終いだ。
「特使」
黙念していると、斉王は飄々とした調子でわたしの名を呼んだ。
「なにもできぬとは言っておらぬ。宛はあるのだ。そ奴に支援を頼むが良い」
「わたくしがでございますか? 恐れながら王が御使者を遣わせればわざわざ交渉などせずに済みましょう。秦軍にはもはや一刻の猶予もございません。何卒この微衷を御高察くださいませ」
「そうはいかん。奴は斉人でありながら儂にまつろわぬ者ゆえ――」
王にまつろわぬ者――賊子か。はたまた破落戸か。それにしては立派な兵軍を有しているらしいが、第一にそのような人物を野放しにしている状況も如何なものか。
「昔は血気盛んで手に負えぬ男であったが、今ならば話ぐらいは聞いてくれよう」
后勝が付言する。粗暴な相手とのやり取りは気が進まない。どうせ煩わしげに一蹴されることだろうが、どうしてもその男を説得せねばならないというのならば、やるしかないのだろう。
「かしこまりました。その者はどちらに」
「稷門の近くに邸を構えている。案内はしてやろう」
「御膳立てもお頼み申し上げます。宮中から使者がお召しになったとなればその者も無碍にはできないでしょうから」
「心配せずとも奴は秦の客卿であったはずだ。その金印を見せればまみえることはできよう」
左右の護衛が表情を険しくする。何者か心当たりがあるのだろうか。客卿とは他国出身の高官のことを指す。李斯などがその例だ。優秀な人材であれば出自を問わず登用するのが当然といった時代であるから、特別珍しいものでもない。ゆえにわたしには思い当たる人物がいなかった。それも過去の人物となれば――というのは言い訳かもしれないが。
「だが心して挑めよ。奴との交渉は難儀するぞ」
斉王の忠告に、英気に満ちた瞳を持ち上げて頷く。己の双肩には秦軍二十万の命を繋ぐ使命がかかっている。これは多くの人間を死地へと導いておきながら、武器を振るうことすら叶わない己がなし得るせめてもの罪滅ぼしである。投げ出すわけにはいかない。持ち得るすべてを賭して、必ず責務を全うする。相手がどのような人物であれ、根気強く、とっくりと話し合ってやろうではないか。