浮世夢の如し

  二十二.曛黒逼りて・後編

「戌刻半過ぎに殿の元へ」
 退朝の途次、どこからともなく現れた伝者はわたしにそのように告げた。殆ど特徴の無い容貌。まるで紗幕の向こう側に立っているような存在感に相反して、その眼光だけは炯々としていた男の正体をわたしは瞬時に理解する。昌平君の近衛兵である、と。漆黒の甲冑に身を包んでいなくとも、峻厳さや静かな気魄に満ちた存在感は薄れていない。有無を言わせぬその圧に射竦められて殆ど反射的に首肯すれば、男はそれ以上言葉を紡ぐことは無く、無言裡にわたしの手に一顆の印章を握らせて夕闇の中に溶け入るように消え去った。
 この印章は軍師学校の書楼に入る為の許可証のようなものだ。たとえ昌平君に近しい人物であってもこれが無ければ立ち入りは許されない。そのような場所で、人目を避けてわたしに会おうとしている理由があるという事実に、言い知れぬ不安が掻き立てられる。
「白駘、急ごうか。雨に降られる前に戻らなければ」
 見上げた天には重い雲が低くたれこめていた。じっとりと湿った空気が肌に纏わりついている。立春を過ぎたこの時期は驟雨も多い。足止めを食らって、他でもない右丞相からの招請を反故にするなんてことがあってはならないだろう。わたしは愛馬の背に跨がると帰路を急いだ。

 夜が更けて約束の戌刻を告げる鉦が鳴る頃には、雨脚がさらに強まっていた。沛然と降りしきる雨は回廊にまで入り込み、跳ね返った飛沫で衣はじっとりと濡れている。書楼の門扉を守る衛兵に印章を提示して中へと歩を進めると、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
 ひとたび息を吸い込めば、脳髄を蕩かし恍惚たらしめるが如き甘やかな香気が肺腑いっぱいに満ちる。
 立ち込める薫香は防虫香と呼ばれている、その名の通りこの楼に収められた書物を虫の害から守るためのものだ。かつて軍師学校に在籍していた頃、この楼に保管された書物たちを補修するのはわたしの役目であった。しかし今はそこまで手が回っていないのだろうか、もともと余人の立ち入りを厳しく制限している場所であるからか、以前よりも手入れがなされていないようである。だからこそ余計に、白檀や麝香の官能的なまでに深みのある芳香を強く焚き染めているのかもしれない。
 俗世から切り離されたような異質な空気の中に一人の男が居た。師と仰ぐその男、昌平君と相謁するのは幾月ぶりか。宮中で催される儀に同じ丞相である昌文君の姿はあれど、彼は殆ど不参していた。右丞相と軍部総司令を兼任する昌平君はもとより多忙であるから特に気に留めてもいなかったのだが、彼の直命によって動いている兄弟子もまた長らくその姿を韜晦させていた事実を鑑みると、脳裏にひとつの確信めいた答えが思い浮かぶ。
でございます」
 書案に向き合う恩師の背中は心なしか痩せたように思える。
 斉の建王と李牧が来朝してから昼夜を舎かず深謀遠慮に耽っていることが多くなったという昌平君。その事実が指し示すのは、束の間の平穏はもうじき瓦解するであろうということ。その思慮の一端も知り得ないわたしでさえ迫りくる大戦の予感を確かに感じ取っていた。
「先生。どうかあまりご無理をなさりませんよう」
 小腰をかがめてそう呟く。よんどころない事情での不摂生なのだろうが、それでも言葉をかけずにはいられない。小さく点る燭の火に淡く照らされた輪郭は痩せ削げ、肌は蒼白としており、しかしその双眸には鬼気迫るほどの執念が滲んでいるようである。呼びかけに返事は無く、だが僅かに下方へと動いた目線が頷きのように見えた。
 昌平君は変わらずわたしの身を案じてくださる。今も咸陽の街区を歩く時でさえ護衛を付してくれているらしいとは蒙毅から聞いた話だ。わたしが幼少の砌に中華各地を遊方してじかに触れた諸言語、はたまた父に口授され会得した亡国の言葉。それらはこの安寧の都で育った知識階級の者たちでさえおおよそ理解すら困難なほどに希少極まるものであるそうだから、やはり利用価値があるということなのだろうか。しかし合従軍戦以降、その知識を求められたことは一度たりとも無い。とはいえ軍部尚書丞という位に為据たりしている点を加味すれば何かしらの腹案があるのはまず間違いなさそうだが、理由はどうであれ守られているのは事実。ならばその恩義に報いるのは当然の礼儀であり、一弟子としての道義的な弁えである。
「貴方様の御力になれるのならば、わたしは喜んで……」
 しかし言葉に詰まった。
「身命を賭すか?」
 どくん、と心臓が破れてしまいそうなほどの大きな拍動が生じる。飲み込んだその台詞を見透かしたように、昌平君は低い声で呟く。かつて呂不韋に陶酔していた頃のわたしであれば躊躇なくこの身を捧げられると断言できていたことだろうが、どうしてか、今は覚悟が定まらない。どうしても痛ましげな友のかんばせを想起してしまう。
 ――自分の命を何よりも優先すること。
 その言葉が脳裏を過るのは幾度目か。二度もこの命を救ってくれた蒙恬がわたしに課した、たったひとつの願い。亜父に対する崇高な自己犠牲精神を愚かな献身と切り捨てた彼が本心を曝け出した、あの夜の姿が心に纏綿としていて、思考を鈍らせる。
「……申し訳ございません」
 どのような内存があろうと間髪入れずに頷くべきであった。そうでなければたとえどんなに巧妙な世辞を述べたとて、仮初の言葉にしか聞こえまい。しかし昌平君はわたしの不忠を詰ることはなく、そればかりか。
「冗談だ。君命のために己が死を鴻毛の軽きに比することは、然るべからず。お前は生きてこそ価値がある」
 と仰ったものだから、累年蒙った厚情に忘恩という仇を返した自分を心から恥じ、堪らずその場に俛伏したのだった。
 暫くして軽い溜め息を吐きながら「そう畏まるな」とわたしを宥めた昌平君の言葉に従い、漸く面を上げる。仰ぎ拝する師の尊顔は一国の丞相という器にすら収まらないほどの崇高な懿徳に満ちている気がした。
「ところで」
 昌平君はかち合っていた目を下方へと逸らし、僅かに細める。
「雨に濡れているだろう。その上衣は脱いだ方が良い」
「へ」
 唐突な申し入れに間抜けな声を発しながらも、改めて自分の格好を見てみれば、雨を吸った重い衣は色が変わるほどに濡れそぼっていた。このままではいずれ間着に染みて体を冷やしてしまうだろう。しかし目の前の御仁は右丞相でありわたしが属する軍部の最高責任者。さすがに礼節を欠くわけにはいかないと、昌平君の厚意を有り難くも断ろうとするも。
「私が許す。躊躇う必要は無い、どのみちここには二人きりだ」
 語調を僅かに強めてそう言われてしまった。
 呂不韋の下で育てられた二年間で、わたしはこうした伝統や文化に対し墨守的な人間に育ったと自覚している。昌平君もそれは理解してくれているであろうに。と違和感を覚えながらも、無益なやり取りに時間を割くわけにもいかず仕方なく帯を寛げて上衣を脱ぐ。
 暫しの沈黙が降る。
 脳裏には昌平君が発した言葉が渦を巻いていた。門下生であった時分に彼と密に関わることは幾度となくあったが、拒むわたしに無理を強いることは一度たりとも無かった。そういう方だった。昌平君は確実にわたしの本質を把捉しているであろう。それがどういう風の吹き回しか。ここまでくれば「二人きりだ」という付言もどことなくわざとらしい。とはいえ度重なる過労が祟ったゆえの言動かもしれないと、ひと先ず納得することにしたが――。
「あの……わたしは何をすれば良いでしょうか」
「そうだな。そこの書棚の整理を頼もう」
「それだけでございますか?」
「閑役ばかりでは退屈か」
 この短いやり取りを経てすぐさまその可能性を撤回した。やはり何か狙いがあるようだ。
 軍部尚書丞という位になってから、これまで何も特別な任を与えられていなかった。それこそ軍部に届く書物の管理といったいわゆる閑役にしか付されず、祭祀等の人手不足で応援を求められた際には一番に駆り出されたほど。それでも期待に応えるべく職務に精励したが、正月を過ぎてもやはり変わりない日々が続き、果たして自分の居場所はここには無いのかもしれないと懊悩していたのだが。今の昌平君の口ぶりは全てを知っていて看過していたと言っているも同義であった。
「いえ。そのようなつもりで申したわけでは」
 とはいえこの場で不満を露わにして理由を問い質すような軽挙はしない。どのような思惑を潜ませていようと、昌平君は「信じるに足る」御方だ。それほどに多大な恩がある。
 肌寒さに薄衣の袖を握りしめながら立ち上がり、脱いだ着物を畳んでいると、ますます濃くなった香気に酩酊にも似た感覚をおぼえる。ふらつく足取りで棚の前へとやってきて数巻、己の腕に書簡を抱いた。時折、自分の意識は奈辺にあるのかといった感覚に陥るも、気を確かに持ちながら粛々と作業を進めてゆく。
 傷んだ紐を付け替える。
 墨を磨り、筆を滑らせる。
 黴や埃を刷いてやる。
 もはや幾千回と繰り返した単純作業だ、何ら難しいことはない。けれども理性を脅かすまでに強まってゆく甘い匂いに思考は鈍り、次第に自制心は落屑のようにぽろぽろと剥がれ落ちてゆく。
 ――まずい。この状況は何だ。肺腑に満ちる妖しい香が徐々に自我を蝕む。昌平君は何故わたしをここに呼んだ? よもやこんな雑事を任せたいだけということは無いだろうに。率直に用件を問うべきか、それともこのまま黙って従っているべきか。
 ふと頭の片隅に、防虫香として使用されている麝香の効力の一つに、情欲を亢進させるというものがあったという記憶が過る。かつて斉に嫁ぐ前に房中術の予備知識として得たものだ。よりによってこんな時に思い出してしまった嫌悪感と同時に、身体の中枢が、殊に下腹部がじんわりと熱くなってゆくような感覚をおぼえたものだから、背を冷たい汗が伝った。
 迷っているうちにいよいよ手先の感触も朧げになり、本能が一刻も早く此処を去るべきだと警鐘を鳴らしはじめた。これ以上悩む猶予など無い。適当な理由をつけて辞去することにしようと、立ち上がると、足元がぐらついた。膝に力が入らない。
 自立も儘ならず体勢を崩し、防御姿勢も取れぬまま為す術なく背中から床に倒れようとしたその刹那、わたしの体は何かに凭れかかるようにして宙に留まった。
 薄衣一枚を隔てて肌にぴたりと貼り付いたぬるい温度。耳朶を撫でる呼吸の音。瞬時に昌平君の広い胸に受け止められていることを察知する。驚きのあまり瞬きはおろか息をすることも忘れしばし呆けていたが、すぐに我に返り急いで離れようとするも。
「…… ……あ」
 逞しい二本の腕が音もなく己の腰に大蛇の如く巻き付いた。手つきは穏やかだが、寸分も身動きがとれないほどのきつい抱擁。あと少しでも力を込められれば骨の一本や二本、へし折られてしまいそうな締め付けに、唇を震わせながら喘ぐような呼吸を繰り返す。
 今度こそ、頭の中が真っ白になった。
 眼球だけをそっと右方へと動かすと、端正な恩師の顔がすぐ傍にあった。多少髭や髪が乱れていようとも、その美しさは露ほども損なわれておらず、それどころか一層色気を増しているようだ。若かりし時分は花も羞うような美丈夫であったことが容易に想像できる。彼の切れ長の眼に整然と並ぶ睫毛の一本一本までくっきりと見えるほどの距離の近さに、思わず生唾を飲んだ。これまでに抱いたことの無い情がぐるぐると蜷局を巻いている。言わずもがな、不実な情だった。この書楼に芬々と立ち込める麝香のそれが悪さをしているのは明々白々。わたしはこれまで昌平君に尊敬の念を抱きながらも彼からの優渥を疑い、怯えてきた人間だったというのが確たる証左だ。
 そうこう思考を巡らせているうちに昌平君の指先がわたしの腰をそっと撫ぜる。僅かな刺激であったが、執拗なまでに繰り返されるその波は、必死に繋ぎ止めようとしていた理性の意図を揺るがすには十分だ。仄かな灯りに照らされた二人の影が重なってからどれほどの時が流れたのか、ここまでじつに二人の会話は無く、地を穿つ雨音に混じって粘度を増した吐息が耳を打つばかりだった。
「……
 喉の奥から絞り出したような低い音で名を呼ばれる。堪らず目を伏せ、声を震わせながらやっとのことで返事をした。すると昌平君はわたしの耳に口唇を触れんばかりに近づけ、より強く体を密着させると、これまでとは打って変わった冷徹さをもってこう囁いた。
「私が登朝した後、上午のうちに招集の羽檄を王翦と楊端和へ飛ばすように」
 そこでわたしは漸く昌平君の行動意図を理解したのだった。雨夜の逢瀬はすべて間諜の目を欺くための作戦であり、本来の目的はこの一言に集約されている。
「先生……それは」
「書けるはずだ。お前はあの男の、娘なのだから」
 昌平君、蒙毅、その他限られた人物しか知り得ない戦の要諦を外部に一切洩らさぬまま将軍らを応召させ、敵国に情報が届くまでの時間を少しでも稼ぐ。たったそれだけのための、なんとも手の込んだ演技だったというわけか。
 もし仮に昌平君が直々に召集の御諚を下し、軍部尚書より王翦らに檄文を送るとなれば、その書旨は殆ど必ずと言って良いほど漏洩するだろう。昌平君は普段から弟子に宛てた緊急性の低い用件の書簡でさえも符号や隠語などを交えた工夫を凝らす等、常々、密偵の目を欺くための備えをしている。裏を返せばそれほどまでにこの御方の周囲には多くの敵が潜んでいるということだ。今、この瞬間さえもきっと誰かがわたしたちを見ている。殊に足音が掻き消える雨の夜は彼らにとって絶好の機であることを、わたしは身を以て知っていたはずだ。十年前の父が暗殺されたあの晩も、今日のように強い雨が降っていたのだから。

 雨が上がった後の空は、星々がやけに澄んで見える。登朝する恩師の背を見送り、黎明刻になってようやく解放されたわたしは、朝露に濡れた回廊を辿り学舎にある私室へと戻った。すぐに命じられた羽檄を書き上げるべく、侍女たちに筆硯と、小さな木匣を用意させる。とはいえ昌平君から伝えられた情報をそのまま書き記すわけにもいかない。万一敵の手にこれが渡ったとしてもその作戦の一切が露呈せぬような隠語を用い、かつ本来伝えるべき内容しっかり理解させなければならないというのがまた難しいところだ。なじみの相手であれば言葉選びの癖をある程度見抜いているから、隠語でのやり取りもすんなりいくものだが、相手は王翦と楊端和。言わずと知れた大将軍であり、そんな人物と関わることなどこれまで一切無かった。
 王翦は士族の名門王宗家の当主である。その戦術眼や用兵の腕は悍ましいまでに冴えている実力者である反面、噂によれば危険な思想を持っているがゆえに時の為政者からの評価は低く、長らくその存在を潜ませていたという面妖な者だ。しかし幸いなことに、昌平君がこの男を高く評価しているという事実だけは知っている。王翦の慧眼をもってすれば隠語の解読など容易く、おそらくわたしの裏に居る昌平君の意図までも汲み取ることができよう。
 問題はもう一人の楊端和である。楊端和が秦の将軍となった経緯は少々複雑だ。彼女は西方の山に住まう夷人らの長であり、合従軍との戦の後に爵位が与えられ将軍となったが、今も秦に居を移してはいない。国に忠誠を誓うというよりも、嬴政の抱く壮図に深く共感し友軍という形で協力することが殆どであるから、こうした平地の戦文化に疎い可能性がある。果たしてこちらの要求が伝わるかどうか。
 楊端和が治める山民族たちが操る言葉には目に見える形が無い。存在するのは口語、つまり音のみ。だから彼女らの母語を直接この書簡に認めることはできない。ゆえに楊端和に宛てる檄文にはその音を平地の簡単な文字に当てはめて表現し、不自然の無いように意味が成立する文章に仕上げる必要があるとは昨日の夜から考えていたことだ。それも上午のうちに完成させなければならないとは、昌平君も無茶なことを言う……と心の中で不満を垂れつつもなんとか朝餉の時間までには完成させることができた。あの御方はわたしの力量を的確に見抜いていたし、課された役目に怯えるであろうことも知っていた。だから「書けるはずだ」と言葉をかけたのだろう。どこまでも、万事に抜け目がない人だ。
 飯を喫して再び部屋に戻り、墨を乾かしている間、昨晩からの溜まりに溜まった疲れを癒やそうと牀に凭れていたところ、ふと帳の外から声を掛けられる。
様。御客人です」
「……どちら様でしょう」
 閉じかけていた瞼を押し上げながらそう問いかけると、言葉よりも先にひょっこりと顔を出したのは見慣れた鮮やかな色彩の衣。こちらに微笑みかける聡明さの滲んだ彼の顔は、まるで早咲きの寒牡丹の如く、相も変わらず華やかで美しかった。
 黒羊丘から戻ったという話は聞いていなかったがと疑問に思いながらも慌てて居住まいを正し、軽く咳払いをする。
「これはこれは、蒙恬五千将」
「どうも。軍部尚書丞」
 侍女らの手前、互いに恭しく挨拶を述べた。
「戻られていたのですね。ということは楽華の皆様も?」
「ううん俺だけ中央に呼ばれた。ついでに君の出世を祝いに軍師学校に寄ったってワケ」
 峠ではまだ雪が降り交通網もほとんど麻痺しているようなこの時季に蒙恬だけが中央に呼び戻されたという事実に、おそらく彼もまた次に始まる戦の仔細を知らされたであろうとは想像に難くない。手放しでは喜べない再会である。
 憂いに沈むわたしに対し蒙恬はいたって普段通りで、その表情には一片の翳りさえ窺えない。
 本当に強い人間とは彼のような者のことだろうと思った。彼は心に抱える負の感情を他に悟られぬように立ち回るのが上手だ。きっとわたしが今この場で「中央で何をしていたのか」を問い質したところでのらりくらりと躱されるのは目に見えている。そんな彼だけが抱える痛みや孤独を払拭する術は果たしてあるのだろうか。
「考え事?」
「……いえ。その、装いを変えられたのだなと思いまして」
「あーうん。ようやく都に戻って来られたから気分転換にね。君が気に入ってくれたのなら、こういう恰好をするのも良いのかも」
 そんな蒙恬の蝉鬢には真新しい真鍮の髪留めがあしらわれ、また結いぶりも一新されていた。打ち垂れていた髪は毛先の方を少し遊ばせていて、なんというか、その破調ぶりも彼らしい雅致があるというものだ。
もたまには彼女たちに結わせてあげたら」
 と彼は侍女たちに目を呉れてそう呟く。
「結構です。罪人めいたこの髪を飾り立てるなど」
「何でそう露悪的なのかなー」
 蒙恬の言葉を聞き流しながら、このままでは長話になってしまうと判じて部屋の中へと招いた。
「どうぞお入りください」
「え。良いの?」
「丁度頼まれていた仕事も片付きましたので。……この方に軽い酒食を」
 衝立を隔てた向こう側に控えている侍女に声を掛けると「かしこまりました」と短い返事があり、暫くして、脚付きの膳が運ばれてきた。
「贈り物どころか手土産も無くて申し訳ないけれど」
「いいえ。貴方様からの言祝ぎと、こうして一献酌み交わすことができた事実だけで十分嬉しく存じます」
 まるで燦々と降り注ぐ陽のような彼からの祝福は、天涯孤独の憫然たるこの身には過分でありすぎる。今この瞬間、一生分の果報を蒙っていたのだとしてもおかしくはない。それほどにわたしは幸福の絶頂にあった。これから待ち受けているであろう未来のすべてを恐れてしまうほどに。
 ―― ――。
 そろそろ墨が乾いた頃合いだろうか。酒杯を置いて席を立ち、広げていた竹の札を鞣し革でくくり綴じてゆく。これからどれほど大きな戦が起こるのか、わたしは何一つ想像がつかない。ゆえに悍ましい。中華統一の壮図へ向け、舫綱が今まさに断ち切られようとしている。その序開きは紛れもなく己が筆鋒の描く文字である。この文がやがて熾盛となり、幾万の人間を殺す。
 実父の死は、ある意味でのゆるやかな自尽であった。彼はきっと自身に差し向けられた数多の怨嗟に殺された。そんな男の背を、わたしもまた同じように追い続けることになるのだろう。そして似たような最期を迎えることになるのかもしれない。それでも大切な人を守るための力が欲しい。その為ならばこの手を血で汚すことを覚悟しなければならない。
 文机の隅にひっそりと置いてあった木匣を開け、中に入っている二枚の羽根を取り出す。深い黒の中に照り返る青が美しいこれは玄鳥の風切羽である。玄鳥は秦という国の始祖伝承に深く関わっている生物で、すなわち、この羽根が添えられた檄文は天子の勅命と同義であることを暗に意味する。綴じ終えた書簡に羽軸を結びつけていると、こちらに視線を向けた蒙恬が僅かにその眼を瞠った。敏い彼のことだ。この一瞬で全てを理解したのだろう。
「蒙恬五千将?」
 膝を進めた彼はわたしの手をそっと拾い上げて強く握る。
 そこでようやく己の手が震えていることに気付いた。否、手だけではなく全身が恐怖に打ち震えている。沸騰する大鍋に被せられた蓋のようにカチカチと歯が鳴って、肺腑に溜まった空気は腹の底から突き上げられているかの如く迫り上がり、嗚咽にも近い息が洩れる。
 薄い瞼の底から凛とした瞳を持ち上げながら、蒙恬はこう告げた。
「俺に一つ、心の支えをちょうだい」
 彼は決してわたしの弱さをなじらない。
 この羽檄はいずれ数多の人間を悲嘆の底へと突き落とすだろう。そんなものを書き上げる、まるで呪いの埋み火のようなわたしを、人を殺す覚悟もそれと同等の報いも受ける覚悟すらもできていないまま業を背負おうとするわたしを。あらゆる痛みや苦しみを飲み込んで、それを決して噯にも出さないようなしたたかさを持つ蒙恬は、いつだって己の弱さを曝け出してまで守ってくれようとする。
「君を連れて行きたい場所がある。できれば夏が良いな」
 目の奥を突き上げてきた熱を袖の先で軽く拭い、わたしも彼を見つめた。
「……貴方様とでしたら喜んで。蓮の花が咲く頃にまたお会い致しましょう」
 きっとこの約束はいつまでも心にいりついて離れないものになるのだろう。紛れもなく、わたしにとっての支えでもあった。自責の念という獄に囚われながら過ごすはずであった孤独な春に、駘蕩たる風を、万朶の花々を、もたらしてくれるのは他ならぬ貴方だ。
 いつだって、蒙恬はわたしに救いをくれる。

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