茅焦様の御到着です。介添えの侍女が細い声でそう告げて間もなく、衛兵が重厚な門扉をゆっくりと押し開ける。まさか短期間でこの男に二度もまみえることになろうとは。わたしは臨淄での苦々しい記憶を飲み込みながら、彼に揖をする。
「すまない。待たせてしまったか」
「いえ、呼びつけたのはこちらですので。ご足労いただきありがとうございます」
ここは河南にある、とある要人の邸。その正殿に礼を尽くして迎え入れられた男は恭しく遅参を詫びた。腰元には珠の埋め込まれた豪奢な金柄。茅焦に対し佩剣を咎める者はこの場に誰一人としておらずとも、彼は自らそれをわたしに差し出す。この会合の真意を――こちらが茅焦の威を借りて何かを目論んでいることを――とうに見抜いているうえで、敢えて乗ってやろうと言わんばかりの、楽しげな顔をして。
肆氏の言いつけを守り、茅焦に書信をしたためたのが河南に到着してすぐのこと。ほどなくして届いた彼からの返書に、商談のため仲秋に河南に赴く予定であったと記されていたことを肆氏の手の者に打ち明けたところ、絶好の機と言わんばかりに面唔を得るよう命ぜられ今に至る。正直、あの一件を経て茅焦がわたしに向けていた執心はおおよそ解かれているに違いないと高を括っていたものだから、彼があっさりと応諾の返辞を寄こしたことに驚いた。
「茅焦様。改めまして此度の鄴戦、貴殿の御助力に篤く感謝申し上げます」
「私はただ船と輸卒を貸しただけにすぎない。こちらこそ鄴攻略を成し遂げた御軍部の采配と、建王への交渉を成し遂げた貴女に深く敬意を表する」
目を奪われるほどに洗練された所作は昔日の、この男に初めて出会ったときのそれにぴたりと重なった。彼がかつて丞相呂不韋の信を取るに至った人徳。十重二十重に本心を覆い隠す虚飾も、或いは若くして名声を上げた傲りも一片たりとも感じさせぬほどに澄み切った、徹頭徹尾実直な佇まい。寄る年波にも勝るその気風に満ちたかんばせが、いまはわたしだけに向けられている。世の習いに則って設けられるこの儀礼的な賞辞の応酬も、普段であればその繁雑さにうんざりするものだが、どうもこの男から齎される言葉はこそばゆい。
機を伺っていた侍女がそそくさと酒食を供え、部屋からまかると、静寂にいっそう緊張が走った。
「もうよろしいですか」
「座持ちは不得手か、貴女らしい」
「茅焦様こそ省いても何ら差し障りのないような世の慣例などは好まぬ御方でございましょう」
「そうでもない。相手方の心底を探るには斯様な会話も重要なものだ。もっとも、いまは貴女の弁口をもう少し愉しみたかったというのが本音だが」
「……」
さらりとそうのたまうような殿方とこうも縁があるのは何故だろうか、と、遠い戦地に赴き失地回復を図る趙軍と刃を交えているであろう彼の姿を、躊躇いながらも思い浮かべた。
「ところで。要職に就く身でありながら何故河南で下官の真似事をしている?」
「わたし自身が望んだことです。斉での諸役を終えた対価として」
「呂不韋殿、か」
「……否定は致しません。貴方様に隠し立てをしても無意味でしょうから」
表向きの任務は一年余り前と同様、洛邑の関門の管理であったが、しかし状況的には以前とは異なっている。ひとつめは軍部の尚書丞という位次に補されたこと。そしてふたつめは茅焦から格別な扶翼を得て、かつそれを巷間に知らしめたことだ。角逐する中原諸国の要人らにとって豪商と名高い彼とつながりを持つということの肝要さは言わずもがな。その存否がかかわってくるのであれば、わざわざ「」という人間に手出しをしようとは思うまい。肆氏の助けで身の安全は保障されているようなものだが、河南において権力を持つ茅焦の光背によってそれはさらに揺るぎないものとなったと言えよう。その点は己にとって思いがけぬ僥倖であった。
土台は整っている。あとは眼前の男をどう動かすかだ。
ややわたしへの執心に傾いているであろう茅焦の天秤に自ら揺るがせにいくには勇気がいる。しかし、さほど迷いはなかった。相手の虚飾を削ぎと落し、冷静に物事の本質を突く彼の話術に対し、素人の自分が小手先の論法で誤魔化すなどは無意味だ。ならば思うがままに、直截に、伝えるべきことを言葉にするほうが良いと、己の直感がそう言っていた。
「単刀直入に申し上げますと、茅焦様には河南での商売から手を引いていただきたいのです。これは秦国軍部の立場からではなく、わたし個人からの申し出です」
「それはまた思い切ったことを言う」
「貴方様が売られている干戈が秦王政の転覆を狙う逆賊に流れていることは、ご存じのはずです。我が国と輔車相依る斉の有力者たる御身で、いったい何をお考えになられているのですか」
「。商人というのは客を得るために、えてして己に利がある立場につくものだ。況してやとうに秦の客卿を辞した身。反秦王派であった呂不韋殿やその家臣団の邪魔立てをする理由は無い。貴女がいくら巧みに、古人の糟粕をもって私を説得しにかかろうとも、この意思が変わることはないことは伝えておこう」
多少は優しい言葉を選んでいるだろうが、それでも元妻たるわたしへの忖度など無いことは伝わってくる。双眸は黒く澄んでいて、あの時のような不穏な熱も――帯びていない。交渉相手の一人として敬意を払ってくれているのだ、と見方を変えればありがたいことではあるとは思うが、しかし「個人からの申し入れ」という状況を茅焦が利用しようとしないのであればこの計画は頓挫する。無論、この交渉で茅焦が簡単に商売の土壌を明け渡してくれるなどという天祐を期待していたわけではなかった。しかし茅焦がわたしへの執心を完全に失ってしまっているのであれば、計画は本格的に砂上の楼閣と化す。そうなってしまうとすべての目算が狂う。我ながら自惚れが過ぎたか、と努めて冷静でいようとしながら次の策を考えていると。
「――と、貴女を脅してしまったが、実は丁度、河南での商売を取り止めようと考えていたところだ」
「え?」
茅焦が唐突にそのようなことを言った。驚くわたしをよそに、彼は言葉を続ける。
「たとえば呂不韋殿が今、秦王政に反旗を翻したとして。如何ほどの人が呼応するだろうか?」
唐突な問いかけに戸惑いながらも、官衙に蔵せられた河南と付近の門亭の記録や、思い当たる反嬴政勢力の規模などを勘案する。
「都合、数万……いや、それを上回る可能性もあるかと」
「私も当初はそう踏んでいた。しかし河南の現状をこの目で見て考えを改めた。あくまで私の管見だが、秦王政を脅かす規模の賊軍はこの地では興り得ない」
きっぱりと言い切ったその言葉は、にわかに信じがたいものではあった。地方官としてはじめてこの地を訪れたときから、わたしはこの美しい旧都がゆっくりと腐り落ちてゆく様をこの目で見てきたのだ。荘厳な白玉の壁や釉薬瓦、晴れ渡る早暁の秋空まで、薄らと拭い取れぬ穢れにまみれているような。ここらの城邑一帯を包み込むまでに膨れ上がった不穏さは、再び河南に戻った時にますます強く感じたものだ。愚鈍なわたしでもそう感じているのだから、茅焦ほどの人物であれば尚のことだろう。しかし彼の慧眼は、わたしの危惧する未来とは全く別の光景を映しているようである。
「理由は単純、呂不韋殿に弑逆の気が無いのだ」
「なぜそう言い切れるのですか」
「根拠は様々あるが、私ならではの観点で言えばカネの流れか。呂不韋殿が河南の経済に干渉しているとは考えられぬほど、あまりにも雑味のある経済の循環。おおかた、心棒を失った俗物たちがあの方を反乱の神輿として担ぎ上げようとしているだけにすぎない」
商人ならではの感覚というものはわたしには難しいが、しかし仮に謀反を企てているとして、蟄居の身でありながら堂々と反乱分子を集めようとする立ち回りは呂不韋らしからぬものであることは理解できる。あの御方は国家をも揺るがすほどの大胆な不行跡を幾度となくはたらいたが、嬴政がとうとう呂不韋を処罰できたのは嫪毐を宦官と偽り太后に勧めたただ一件のみ。確かに、それほどまでの先見の明を持ちながら、漸進的に悪化の一途を辿る河南で敢えて泥舟に乗るような真似はするまい。茅焦の推察に感服しつつも、しかし傍から見れば呂不韋が「反乱分子の巨魁」として広く認知されている事実が、じわじわと襲い掛かってきた。
「だが、”いずれここで内乱が起こり、趙との戦で疲弊した軍部が対応に追われることになるだろう”と見なされれば、事が起こる前に必ず秦王は然るべき宸断を下す」
それはつまり、呂不韋という求心力を断つだろうということだ。たとえ本人が関知しておらずとも。
「なにか、あの御方をお助けする手立ては無いのでしょうか」
「目立つことをすれば御身に危険が及ぶ。私としては、何もせずにここから離れることが最良だと考えるが」
「……」
「そうはしないのが貴女という人間なのだろう。であるのならば一刻も早く河南の現況を上申することだ。事態がこれ以上悪化しないうちに」
鄴戦然り、結局わたしはこのような役回りを負う運命にあるのだろうか。かつて官吏として身を立てることを夢見た若い時分は、いずれ呂不韋を救う立場になりたいと、漠然とそのような理想を描いていたような気がするが。結局、今の自分にはそのような政治的手腕どころか呂不韋への交渉権すら無く、引導を渡す役目を甘んじて受容するほかない。その不甲斐なさが滾々と湧き出ずる。しかしこのまま賊徒を野放しにし、いずれそれらを鎮圧させるために莫大な国力を消耗せざるを得ないとなれば、それにより呂不韋が怨嗟の的となるくらいならば、やはり茅焦の提言は素直に受け入れるべきなのだ。
洛邑の秋はまたたく間に過ぎ去った。じっとりとした酷暑が長らく尾を引いていたかと思えば、さかしまに冬の気が立つのは早く、都から節物の寒具が下賜されるよりも前に裘衣や厚手の襪を引っ張り出す羽目になった。冬季の北西から降る風はからりと乾いており、容赦無く肌を刺す。そのような気候ゆえか、露店では脂を売る商賈が多く見られる。河南では一般家庭であっても、この時期になると膏薬を作る風習があるそうだ。
わたしは懐からおもむろに象牙の匣を取り出した。精緻な文様が鏤刻されたそれは、洛邑へ至る旅次で世話になった工の婦人から贈られたもの。ここでの生活が落ち着いた頃、改めて礼物を添えて使者を遣わしたところ、そのまた礼にと届けられた。中身は面脂である。わたしが門の守護という外仕事に就いていると知っていたのだろうか、一日中外気に晒され続ける肌膚にはこれがよく効いた。
雪が降り始めてもなお洛邑を訪れる人の足は絶えず、贅の限りを尽くした宮殿の明かりは天に沖し、変わらず深更の空を煌々と照らしていた。先の趙戦によって民も国力も少なからず疲弊しているこの窮状で、河南一帯のいっそうの賑わいぶりは異様な光景であると、誰もが確信を持てるまでに至っていた。そしてそのようなことを為し得る人物として呂不韋の名が真っ先に挙がることも、これまでの所業を鑑みれば致し方ないことであると認めざるをえなかった。
咸陽からの正使が何の前触れもなく洛邑を訪れたのは、そのような折であった。
日の短さも寒さもますます厳しくなるようなこの時期に、いったい何事かと問えば、落ち着いて聞けと念を押されながら告げられたのは、あろうことか嬴政の来駕。もはや茅焦の力をもってしても呂不韋を取り巻く奸物たちを制御することは不可能であると、肆氏にそう伝える早馬を出してからまだひと月余りしか経っていないにもかかわらずだ。連れ立つ従車や臣僚らの数から、旅団を十分に整える時間さえも惜しみ、いち早く都を発ったことが伺えた。しかし御身を顧みず先鞭を執ろうとする姿勢には、肆氏をはじめとした重臣らも頭を抱えたに違いない。
河南一帯の情勢を鑑みてか直前まで緘口されていた王の臨御に、現地の官吏らも倉皇として嬴政を迎える準備を整えた。わたしも軍部の一員としてすぐさま水面下で周辺の邑や寨へ警備部隊を編成するよう伝令を走らせ、対して洛邑では出入管理を厳しく制限。要路を整え、すべての民に武器の佩用を解くよう御触れを出した。自国内とはいえここは古くから呂不韋の食邑であり、ゆえに市井の人であれ嬴政に対し猜忌の念を抱く者も少なくはないことは容易に想像ができた。
洛邑に到着した嬴政は呂不韋に面会を求め、十人ばかりの侍従を帯同させて旧都の殿閣へと姿を消した。両者の因縁を思えば、新たな内乱の戦端がこの場で開かれてもなんら不思議ではない状況。皆が皆、隙間無く閉じられた重厚な門闕をただ見つめることしかできずにいた。四肢が固く強張るような緊迫した空気の中、半刻、また半刻と時が経ち、ようやく五体無事な嬴政が姿を現したときには、深い安堵に伴う脱力感が一頻り全身を駆け巡った。
この旧都を自らの眼で検分し、何を感じたか。呂不韋とどのような会話を交わし、胸の底に何を思い定めたか。嬴政はそれらを一切秘匿したまますぐに還幸の途に就いた。
一方の呂不韋側も特に大きな動きは見せなかったためか、この件が一帯に蔓延る勢力に抑止力をもたらしたのはほんの半月ほどであり、再びもとの惨状に戻りつつある光景にわたしはただ諦念を抱くばかりだった。呂不韋の真意を知りたくとも、もはや赤の他人であるわたしには相まみえることすら叶わない。啖呵を切ってまで相国の養女という立場を辞しておきながら、手放さざるをえなかった過去に幾度となく思いを馳せる、矛盾撞着をきたす自身にも嫌気がさした。
冬はさらに深まっていった。連日の降雪で小路は閉ざされ、門の外に見える景色も見事に白一色となった。見上げる空は晴れとも曇りともつかぬ無味な灰色で、うすぼんやりとした陽の光が淡く地面を照らすばかり。底冷えするような日々が続けば、さすがに通りを行き来する人の姿もめっきりと減ってきた。
「この様子では、夜はいとど冷え込みましょう。往来も閑寂としておりますし、少し火鉢にあたってきては如何です」
わたしはともに守護をしていた老齢の将に声を掛けた。この骨身にこたえるような寒さが続けば、身体に傷を持つ者たちは耐え難い疼痛に襲われることを聞き及んでいたからだ。彼は一瞬、渋るような態度を見せたものの、通りに一台も車の影が無いことを確認すると、恭しく手を包んだ。
「様もご無理なさらぬよう。では何かございましたらお呼びください」
洛邑の数ある門のなかでも、ここはとりわけ交通量が少ない場所だった。南側にある洛河のほとりは各地の要衝へと続く大きな道があり、多くの商賈が集うが、邙山を臨むここ北側は旧都の宮闕から踏襲した建造物が立ち並ぶばかりで、当然ながら人の気配は薄い。
孤愁に浸りながら渺茫たる遠くの景色をぼんやりと眺めてしばらく経った頃、雪景色の中からひっそりと影が現れた。それは、雪路を往くにはあまりにも心もとない、小さな車だった。
「止まれ。何者か、これからどこへ行く」
声を掛ければ御者の男は素直に馬を停め、しがない商人であると、当たり障りのない受け答えをした。この時点でほとんどの門兵はこの車を通してやるはずだ。冬は政情も落ち着いており、取るに足らない通行人をわざわざ厳しく誰何して煩わしい業務を増やす理由も無い。通り一遍の質問を投げかけて、それでしまいである。
しかしわたしは違和感を拾えぬほど愚かではなかったし、その違和感に気づかぬふりをするほど無責任な人間でもなかった。
緊迫した御者の面付き。車の中からこちらの様子を窺っているであろう、人の気配。ぴたりと閉ざされた小窓をトンと叩けば、蚊の鳴くような声が耳に入った。女がいる。
「寒烈の季に婦を擁して行商とは怪しいな。証文を出せ」
御者は押し黙った。この悪路に加え、たった二頭の馬に牽かせた車に数人が乗っているとなれば、強行突破はほぼ不可能である。わたしが半鉦を鳴らせば門は直ちに閉じられ、応援の兵が駆け付けるだろう。
逃げ場はない。そう観念してか、しばらくすると小窓が僅かばかり開かれた。そこからぬっと伸びてきた手には巾着袋が握られている。中身は検分するまでもなく袖の下だ。塩かはたまた金砂か、いずれにせよ決して受け取ることはないが。
「残念ながらわたしは佳酒や賄賂ごときで任務を忽せにはしない人間だ。将を呼び荷を改めよう。全員降りろ」
毅然とそう告げたときだった。
「」
と、己の名を呼ぶ声がはっきりと耳朶を打った。
しじまの中に凛と響き渡ったその音を、娘として歩んだ在りし日を、わたしの身体は一瞬にしてありありと思い出した。この質素な車の中に到底いるはずのない御仁であるが、それでも、扉を引き開けて中を確かめずとも確信を持てた。たった二年の歳月では、総身に刻み込まれた記憶はまったく色褪せてなどいなかったのだ。
「……り、」
呂不韋様。
無意識のうちにその名を口走りそうになったことに気づいて、慌てて口をつぐむ。この男がひそやかに邑の外に出ようとしているその意義を、察せぬわけではない。河南に永蟄居を命じられた呂不韋は、たったの一歩も外に出ることを許されてはいない。その約定を破れば死罪が科せられると伝えられているはずだ。
なぜ、とは敢えて問わなかった。問えるはずもなかった。肆氏を通じて嬴政に河南のことを奏上したのは紛れもない己自身。それが呂不韋にとっても、秦にとっても最適解であると判断して。その時はまさか、育ての親にこの手で引導を渡すことになるなど思ってもみなかった。ここまで追い詰めたのは他でもないわたしなのだと、自罰感情が絶え間なく胸中に渦を巻く。この選択は正しかったのだろうか。そもそも正しさとは如何様な道徳的基盤に基づいて生まれるものであろうか。あの日の「賭け」の結果は、きっと判ずるにはまだ早いだろうが、しかし答えが出る頃には呂不韋はきっとこの世のどこにもいないのだ。
これは何の因果か、天がふたたび試練を与えようとしているのか。官吏としての使命に沿うならば、決してこの男を見逃してはならず、すぐさま捕縛して中央に報告すべきである。それがわたしの役目だ。今まさに目の前で逐電を試みようとしているこの男のことを心の底から「他人」であると割り切っているのならば、容易く為せること。しかし情けないことに、身体は寸分たりとも動かない。それはこの身に深く根を張る、呂不韋という人間に対するあらゆる苦悩や絶望をも凌駕する畏れと、かつてこの男から与えられた一縷の光、そのかすかな残照が交錯するがゆえだった。
「……。見逃して差し上げます」
大きく揺れる己の心に言い聞かせるように、言葉にした。かつて自身が忌み嫌った、私腹を肥やす高官らと何ら変わらない、或いはそれ以上に卑劣な行為だ。それでも、やはり。これまでもこれからも、わたしがこの男から与えられるのは深甚な痛みばかりであることを知ってもなお、自ら手を下すことなどできなかった。
「その代わり最後に、問わせてください。今のわたしをご覧になっても、なお、憐れと思われますか」
「あの忠告を撤回するつもりは毛頭ないがのう」
「無論、貴方様のお言葉はこの胸にしかと服膺しております」
もはやこれから二度と会うことはかなわないとして、それでも呂不韋の孤影はこの命が果てるまで失われることはないのだろう。呪縛のように、いつまでも、わたしは決して報われぬわたし自身を抱えながら生きてゆく。この男と「親子」にはなれなかった幼い自分、立場を得てもなお救いの手すら伸べられない今の自分。
「ひとつ、出世を嘉して褒美をくれてやろう」
僅かに開かれた窓の奥、その暗澹たる狭間からおもむろに声がかけられる。闇に溶け込む艶やかな黒鬚をゆっくりと撫でながら、呂不韋は言った。
「かつて斉の国に騶奭という男がおった」
「すう……?」
「おぬしの、”誠の父親”の名よ」
耳馴染みの無いその言葉を反芻する間もなく、衝撃の事実を告げられ瞠目する。それは少なくとも、わたしが初めて聞く名前であって。
亡父は斉を去るとき、自身の古き名もまた捨てた。わたしが知らされていたのはその事実だけだ。騶奭と名乗っていた頃の亡父を、否、もっとずっと過去のことを呂不韋は知っているのかと、問い質そうとしたそのとき。望楼から梯子をつたって一人の兵が下りてきた。
「様、詮索が長引いている様子ですが」
応援を呼びましょうか、と訝しげな表情で車を見つめる兵を、わたしは精一杯の冷静さを装って制し、自らの手で車の窓を閉めてやると御者に目配せをした。
「…… ……。いや。問題ない、通せ」
鞭を打たれた二頭の馬は白い息を立ち昇らせてゆっくりと歩みを進めた。杏の花弁のような大ぶりの雪が、その轍跡を瞬く間に消し去ってゆく。あまりにも呆気ない今生の別れであった。いずれ呂不韋はわたしの知らぬ場所で、知らぬうちに死ぬのだろうというごく当たり前の現実を突きつけられても、その結末に対する実感さえ湧かず、わずかに惹起した喪失感もさほど甚大なものではいまま、やがて車の影は白い景色に紛れて消えた。
諜報のために同じく河南に潜んでいた肆氏の手の者から「呂不韋から封地を取り上げる」旨の勅令が出たそうだと聞いた時には、呂不韋が自死を遂げたという噂が流布しはじめていた。人々は口々に、自身の命運を悲観したがゆえの非業の死であるとまことしやかに言い合ったが、それだけは否定したい。自負心の塊のような男がそのような手段を取るとはどうも考えにくい。嬴政と会って何か思うことがあったのだろうか、或いは河南という狭い世界でいじましく生きるのが性に合わなかっただけなのかもしれない。邙山近辺には行商人のみが知る間道がいくつかあるという。温涼車ならばまだしも、あの車で深雪をかき分けてゆくのは至難の業であろうが、あの呂不韋のことだ、何かしら手立ては講じてくれているに違いない。
罪人の無事を祈念するのは官人倫理に反するが、それでも。わたしは一刻も早い春の訪れを、心密かに深く願い続けた。