四.錯影に揺ぐ

※項翼寄り

 春が廻った。とはいえこの場所にそれらしい趣はなく、広大無辺な空と、何の面白味もない漂渺たる荒れ果てた大地のみが相も変わらず広がっている。遠くに臨む山肌に薄らと緑が被覆している、わずかな草萌の訪れを、項翼は心底つまらなそうに眺めやっていた。
 彼が率いる千人隊は、同輩の白麗や他の隊と共にうらさびれた辺塞の守備を任されていた。ここに来てから二月が経とうとしているが、敵兵と刃を交えたのはたったの一度きりだ。それもあまりの退屈さに痺れを切らした項翼が、十里ばかり離れている魏国の寨に奇襲攻撃を仕掛けたことが発端となった小戦である。
 幸いにも死人は出なかったが、項翼を止めようと敵陣に突っ込み、迎撃を受けて大なり小なり怪我を負った者が十数名。貴重な攻具も乱費した。都から離れた辺境の地では補給も潤沢ではない。苛立ちながら打ち損じた矢を拾い集め、ひとつひとつ、丁寧に矢羽を修復する白麗に何度「バカ」と謗りを受けたか項翼はもはや憶えていなかった。ただ、反省はしている。ふとした瞬間に己の中で膨れ上がった激情を、衝動を、どうしたって抑えきれずに血気に逸る行動をしてしまうきらいがあるのは、項翼自身十分に理解していた。しかし理解していたところで、いざその事態に直面すると、気勢に任せて向こう見ずな行動を取ってしまう。こればかりは生来の気質でありそう簡単に治るものではない。
 罰として項翼に課されたのは遥々丘を二つほど越えた臨武君の軍営で催される軍議への強制参加だった。路次は荒く馬はまともに使えず、片道だけでも三刻はくだらない。それを毎日往復する。言わば掣肘である。
 閑々としたこの地における軍議の議題など当然の如く無い。形ばかりの無味乾燥な軍議は日々の任務同様退屈なことこの上なかったが、しかし今日は違った。中央からとある軍令が届いたのである。その内容は、項翼らを魏領と秦領の敵情視察に遣わすというもの。というのも、魏は今、まさに戦禍に見舞われているらしい。臨武君が他国に放った間者らが注進した情報だ。
「秦将蒙驁、ね」
 項翼が低い声で独り言ちた。寄手の将は秦の蒙驁。良くも悪くも凡庸と評される老将であるが、攻城戦に関しては、こういった堅実な手をひたすらに打ち続けることができる者が圧倒的に向いている。
「で、戦況はどうなんだ」
「既に魏は畼と有詭の二城を失っている」
 項翼の問い掛けに、臨武君は悠然とそう答えた。攻城戦などという地味な戦法には全く興味をそそられないらしい彼は、蒙驁の快進撃に危機感を抱いている様子が毛ほどもない。
「前に興兵の報告入ってきたばかりじゃねェか。冬も越せずにやられちまったのか? なっさけねーな」
 双国の力が拮抗しそのまま潰れ合ってくれた方が楚にとっては都合が良かったのだが、魏がこの有様ではむしろ秦の勢力がますます強まるだけだ。蚌も鷸も双方が疲弊していなければ漁夫は利を得ることができない。
「つーかあのジジイ、去年韓も攻めてなかったか」
「そうだ。お前にしては良く憶えているな。十三城落としていたはずだが」
「チッ。バケモンかよ」
 下手をすれば往年よりも脂が乗っているのではなかろうか。おそらく此度の戦における魏の勝利は薄いであろう。あの老骨が今も軍事の第一線に立ち、次々と戦果を挙げていることは驚くべきことであるが、ただそればかりに目を留めるわけにはいかないと判じた項翼は話題を変えるべく臨武君に問い掛けた。
「んで。俺らが視察に行く間、ここの守備はどうすんだ」
「その件だが」
 臨武君は言葉を溜めてその手に持っていた下知状に目を落とし、口角に僅かな笑みを上らせる。
「景染将軍が救援に来るそうだ」
「あ? マジかよ」
 その名を耳にした項翼は苦虫を嚙み潰したような顔をした。あの男の冷酷無比な、人を人とも思わぬような、しかしどこまでも能率的な采配に振り回された昔日の記憶を思い返すたびに、鞭を打たれたような痛みが胸に走る。だが対する臨武君の笑みは、景染に対するものではなく。
千人将も同行しているらしい。良かったな、麗。御無沙汰だろう」
 二人から少し離れた場所で、筆を執り、このあたりの地形地物を一枚の布に書き込んでいる彼の義弟へと向けられていた。
「わざわざ伝者に聞いたのか。臨武君、あんた本当に悪い人だな」
 白麗はこちらに目もくれずにそっけなく言い放つ。
 澄まし込みやがって。と項翼は心の裡で幼馴染みに悪態を吐いた。
 は景染の、実の娘にあたる女武官だ。しかし景染は自身の血を引く彼女を可愛がるどころか、嫡女ではないからと親子関係を公にせず、敢えて第一線に出し骨を折らせるような真似をする。父には似ず、さかしまに芸妓であったという母の血を色濃く受け継いだそのかんばせには、泥を弾く蓮のような力強さと、何者にもまつろわぬ鋭い意志が滲んでいる。景染はそれが気に食わないのだろうが、しかし飾らずとも美しい女だった。

 それからひと月ばかり経った頃、項翼の隣にはその女の姿があった。戦場では重厚な甲、膝下までを覆う烏皮の靴を身に纏い、長柄の得物を堂々と手に持っている。化粧気のない顔は、ともすれば精悍な美少年のようにも見えた。は項翼が守備を担っていた寨を引き継ぐことになったらしく、臨武君に挨拶を済ませると数騎の護衛を引き連れて丘を越えてやってきた。昼夜を舎かぬ行軍を続けていたはずの彼女は、その疲労を噯にも見せず、項翼の姿を見ると軽やかに馬から下りた。
「麗に挨拶したのか」
「まだ。わたしの隊は項翼の隊と交代だから引き継ぎが先」
 希薄的な応答。生真面目な顔はただ一点、項翼の隊が作り上げた寨をつぶさに見つめている。将の気性をそのままそっくり表現したような寨は、やや粗雑な造りをしていた。濠や塁、虎落は、形だけはなんとか仕上がっているものの、飛び道具の厳密な射程距離がほとんど考慮されていない上、敵の拙攻を誘うような仕掛けも見当たらない。
「なるほど。手始めにここの整備かー」
「下手クソで悪かったな」
「気にしないで。地道な土木工事は、項翼の性に合わないって知ってるから。貴方は自分が得意とするところだけを頑張れば良いんじゃない」
 以外の誰かであれば間違いなく不満をぶつけられそうなものだが、彼女だけは決して項翼の不得手を非難しない。そればかりか個性を理解し、尊重し、慰めを掛けてくれる。普段、己の振る舞いを詰られることが常である項翼にとって、不意に差し向けられた心からの優しさは、むず痒いものだ。心の奥底からに対する申し訳ない気持ちが沸々と湧き上がってきたところで、まるで時機を計ったかのように振り向いた彼女が、項翼の悶々とした感情を払拭するように一言。
「とはいえ少し手伝ってくれたら嬉しいけど」
 珍しく相好を崩しながらそう述べる。
 柔らかく細められた目と、弓なりにたわむ唇から覗く皓歯にすっかり不意を突かれた。項翼は自身の頬にほんのりと熱が上ったのを自覚した。

 高殿から土木作業に勤しむ隊の者を督励するの横で、項翼もまた彼らの姿を見つめていた。鉄石なる軍紀のもとで鍛え上げられた彼女の兵――厳密に言えば景染の兵だ――は、行軍の疲れをものともせず齷齪と働いている。項翼の麾下も負けじと彼らに交じって汗を光らせながら工事に励んでいるようだ。二人の間を、僅かな暖かさをはらんだ風が吹き抜ける。
「魏軍はどう? 目立った動きはあった?」
 は眼下に目を遣ったまま、項翼に問い掛けた。
「なんもねェよ」
「そう。まあ秦の侵攻にあっているうちは、大人しくしているか」
「かもな。そっちはどうなんだ」
 項翼が水を向けると、彼女は引き締めていた表情を僅かに緩めて、溜め息を吐いた。
「それがかなり難しい問題に直面していてね」
 欄干に肘をつき、長い指を組み、そこに額を預けた彼女は思案顔で眼差しを其処此処に巡らせる。
「百越の勢力が以前よりも増している。無彊の後胤どもの仕業だろう。蛮夷を巻き込んで力をつけて、いずれわたしたちが北方の戦に夢中になっている隙に攻め入るつもりかも判らない」
 百越とは楚の南方地域に棲まう諸民族の総称である。かつてあの地には様々な民族が割拠していた。そこに数百年前、楚に敗れた越王侯の生き残りが逃げ込み、王を立て、やがて散居していた越人や蛮夷らを服属させて再起を図っているというわけだ。
「斥候を放ったが如何せん言葉の訛りが酷くて詳しい情報は殆ど掴めなかった。けれどもあそこは資源も食料も豊かな、良い土地柄だ。王とやらが上手く他民族を収攬できてしまえば、この楚をも凌ぐ国力を持つことになるかもしれない。その前に手を打たねば――と。こういうわけ。宰相には報告済み」
「そりゃあ、マズいな」
「まあ……奴らの根城はずっと南、海の方だ。遠いからまだ直接的な脅威ではない」
 猶予はあるとは言い切ったものの、は言葉と裏腹に表情を引き締めた。
「項翼たちが視察から戻ってきたら、わたしはまた南征に行く。敵方の内情をより探るべく、深くまで侵攻し、閩越人を捕虜として連れ帰るようにと下命も拝した」
 言葉も通じぬ蛮人との戦は、中原の型に嵌まったそれとはまた勝手が違う。我々の戦には少なからず儒教的な考え方が流儀として当然のように根付いているのだとは言う。ともすると難しい話をしがちなに、項翼が小首をかしげると。
「ああごめん」
 彼女はかろがろと謝りながら、噛み砕いて語る。
「例えば項翼も、無力な文民をむやみに殺したいとは思わないでしょう」
「まあ、さすがにそうだな」
「逆に一度深くやり合った相手とは、どちらかの首が落ちるまで徹底的に戦い続けるのが当然。それが我々にとっての流儀。けれども相手は違う。何の様式にも囚われず本能のままに敵を屠る。その様を劣った文明を持つ民族と侮蔑する人もいるけれど」
 そこまで言いかけたの頭の中には、自身を侮蔑するとある男の姿が思い浮かんだ。どんな仕打ちを受けたとて、決して心の底から憎むことができない。憎むという考えすら思い浮かばない。この身に血を分けた父のこと。は自嘲気味に言を継ぐ。
「原理主義的な考えが体に染み付いているうえに、せせこましい軍紀にも縛られたわたしたちにとって、奴らは本当にやりにくい相手だ。……臨武君のいた頃が恋しい。昔の泥臭い戦が、わたしは好きだった。けれども宰相はどうもあの人を北方の戦に出したいようだから、仕方がない」
 一頻り語り終えた彼女は深い息を吐き、僅かな疲労を湛えた瞳を外へと投げかけた。腹を決めねばと、そう考えてはいるのだろうが、どことなく意気消沈気味だ。
「なんだ。その、無茶すんなよ」
「するよ。百越との戦は、わたし自身にとっても大きな意味を持っているから。――と、辛気臭いのは止そうか。久々の再会なのに」
 含みを持たせたその言葉の先を問うより前に、は懐から小さな麻の袋を取りだす。そこからまろび出た一顆を口に入れ、果皮や種を強引に噛み砕いて飲み干した彼女は。
「項翼」
 と、雨上がりのような爽やかさの滲んだ声で、朋輩の名を呼ぶ。
「ん」
「南征の土産だ。干し龍眼、中々に美味い」
 だしぬけに投げ渡されたその麻袋を、項翼は咄嗟に受け止めた。
 は空いた両手のひらで自信の頬をぱんと叩くと、眼下に目を向けて。
「さて。そろそろ士気も下がってきたか」
 麾下たちの様子を見遣るなり、身を翻して梯子の先にある鉦楼へと飛ぶように昇った。槌を手にした彼女から「耳を塞いでいて」との優しげな忠告が降ってきて、束の間、けたたましい鉦の音が丘の向こうまで轟々と鳴り響いた。
「さあさお前たち、暫しの休息としよう!」
 が凛とした声を張り、そう告げる。高く澄んだ音が、疲弊した兵卒たちの鬱屈とした雰囲気を劈いた。俯いていた男衆が次々と顔を上げて、燦燦たる円い陽に重なる彼女の姿を仰ぎ見る。
「遥々の下向を終えた身でありながら、忠勤に励む皆に心より感謝する! 項翼隊も日々の守護、御苦労であった! 今夜は景染将軍自ら慰労の宴を催してくださるそうだ!」
 方々で小さな歓声が生まれはじめた。その瞬間を逃さず、は高殿からひらりと降りて自ら兵たちを労いに行く。しなやかで気風の良い、彼女が演ずる千人将という役は、図らずとも彼女自身を将軍の娘たらしめるものだ。かつて「得意ではない」と言っていたはずの将としての立ち居振る舞いが、こう見るとすっかり役に塡まっている。
 項翼は手に持った麻袋に目を落とした。
 が投げ渡したもの。中には龍眼という南方の水菓子が入っている。
「無自覚か? ……タチ悪ィ」
 よもや投果の俗を知らぬほど無知ではないはずだが。
 項翼の脳裏に、もはや抗い切れぬ、醜悪な考えが去来する。それはやがて生々しく胸中をうねり、ますます彼自身の忌々しき生来の気質を嫌に刺激した。項翼は沈静した面持ちの裏で、自制心を必死に働かせながら唱える。
 あれは麗の許嫁だ。
 だが瞭然たる事実を自身に言い聞かせるように口にしても、そう簡単には割り切れないものだ。


 今日は殊に酔いの回りが早い。
 それも心地の良い酔いではなかった。酒精の沁みた体は鉛でも埋め込まれているかのように重く、吐くまではいかないような不快感が胸につかえていて、そのくせどうしてか理性だけははっきりと残っている。数か月ぶりに豪勢な飯と酒にありつけた兵たちの殷賑とした雰囲気を遠望する項翼の三白眼は、褪めた色をしていた。
 臨武君と白麗はやや離れた宴席の上座に招かれたようであった。左右は景染の縁戚者で固められている。その傍らにはの姿もあった。彼らと家同士の繋がりを持たない項翼はあの場に交じることはできない。麾下が気を利かせて項翼に話題を振るが、無味乾燥な会話に興じる余力もなく、手すさびにまたぞろ酒を口にした。美しい妓女たちの音曲や舞などは、荒蕪地の中心に立つこの寨にあるはずもなかった。
 空に放った視線の先で、呆と、項翼はの姿を捉えた。
 思えば彼女に初めて会ったのは、景染の戦勝祝賀のために催された宴でのことで、あの時も確か、今日のような無聊を感じていたのだ。皆が皆、景家の縁戚に阿諛的な態度を取るばかりの、じつにくだらなく、馬鹿馬鹿しい芝居を見せつけられていたものだったから。


「はじめまして、項家の大少爷(お坊ちゃん)。隣、良い?」
 平板さに温雅を薄く刷いたような声が、頭の上から降ってきた。
 身体を僅かに捩り、声の主を見上げる。凛々しくもあどけなさが残る顔立ち。恐らくわざと厚く衣服を着込み、敢えて恰幅を良く見せているようだが、項翼は一瞬にして気づいた。おそらく女だ。ほころびつつある蕾のような、幽かに甘い匂いがする。しかし彼女は奇異の目を歯牙にもかけぬほど、武官然とした気魄に満ちていた。
「誰だてめえ」
 項翼は喧嘩腰にそう問うた。というのも彼女が発した「大少爷」というのは、やや皮肉的な意味合いが込められている言葉だ。確かに己の振る舞いは褒められたものではないかもしれないが、それを出逢ったばかりの他人に揶揄されるのは癇に障るというもの。
 しかし女は項翼の怒りをさらりといなし、爽やかに微笑んだ。
「景染軍所属の。貴方と同じ百人将。以後よろしく」
 女だてらに百人将。いやそれよりも。
「景染軍って、あの景染軍か?」
「そうだけど」
 景氏とは楚の公族のひとつで、代々大臣を務める家門であり、景染もその系譜に名を連ねる武官だ。景染軍は殆ど縁者とその重臣からなる部隊で構成されている。それは彼の公族としての矜持に基づく、極端な排外主義によるものである。汨羅江に身を投げた屈原然り、三閭にはこのような過激な人間が多いのだ。扈従らも総じて尊大な態度であるから、項翼は彼らをあまり好いていなかった。しかし軍紀厳正な軍隊を作り上げるその采配は見事なものであることは認めざるを得ない。
 そのような男の下で百人将という位次を賜った彼女が何者であるのか。
 問うよりも先に女は隣に腰を下ろし、給仕に運ばせた酒を呷る。紅を引いていないはずの唇は朱く冴え、その隙間から零れる酒気混じりの吐息がやけに項翼の耳を擽った。
「それよりもさ、誰にも相手されなくて暇してたんでしょ。それならわたしに聞かせて。噂の、莫耶刀の話。確か言い伝えではつがいの剣もあったはずよね、それは貴方のお父様がお持ちなの?」
 が元来、あまり他人との関りを持ちたがらないような人物であったというのは後から聞いた話だ。
 思えば彼女はどうしてか、項翼に対しては出逢ったその時から変に友好的であったのだ。


 夜も更けた頃。記憶の中の彼女の面影は、気づけば遠ざかり、項翼はやや不快な酩酊感に意識を脅かされながら帰り道を歩いていた。前後不覚とまではいかないものの、支えが無いと自立することさえ難しい倦怠感に指の先まで侵されている。肺腑に染み入る涼しい夜風だけが唯一心地良い。半ば自棄になって飲み過ぎたゆえの悪酔いであることは言を俟たなかった。明日の朝、酷い宿酔に悩まされるであろうことは想像に難くない。
「飲みすぎだバカ」
「るせェ。たまにはイイだろうが」
「介抱する俺の身にもなってみろ」
 項翼の肩を抱きながら粗忽な振る舞いを詰る幼馴染みの蟀谷には青筋が浮いている。その奥には松明を掲げて足元を照らすの姿があった。きりりとした双眸に照り返る炎の煌めきに、無意識のうちに目が引き寄せられる。途端に交差する視線。
「おい。オマエは酔ってねえのかよ」
「隣に景染将軍がいて酔えるわけないでしょ」
 その場を誤魔化すような項翼の問い掛けに、は平時と何一つ変わらぬ顔でそう述べた。
 やがて丘を越えると、ぽつぽつと灯りが見えた。項翼との二隊が構えた軍営へと続く道を照らす火が、等間隔に置かれている。白麗は項翼の腕を解くと、に目配せをして踵を返そうとする。
「あとは大丈夫だな。、悪いが翼を頼む」
「任せて。じゃあおやすみなさい」
 支えを失いふらついた身体は、の繊手に、そのしなやかさに似合わぬ力強さで引き寄せられる。彼女の掌は氷のように冷たい。項翼はそこでようやく、昼よりも随分と気温が低まっていることを思い知った。花冷えというやつだ。途端に込み上げた申し訳なさに揉まれながら、覚束ない足取りで導かれるままに歩を進める。
 やがて項翼は天幕の中に引き入れられたが、そこは普段、自身が起居している場所ではなかった。
「どこだ、ここ」
「わたしの天幕。それよりもお水、飲む?」
 は意匠の凝った青銅製の匜を手に取ると、項翼が腰に下げていた瓢に水を注いだ。彼女の柄に似合わぬけったいな骨董は景染が蒐集していたものであろう。喉を鳴らしながら飲み干した水は、胸のつかえを濯いでくれるような冷たさで、まさに甘露の味だ。
「少しは気分が良くなった? じゃあ明日の打ち合わせだけど」
 とはいえ酔いは完全に醒めたわけではない。このまま褥に寝転んで、微睡に落ちてしまいたかったが、しかし生真面目なはそれを許さない。情け容赦なく眼前に地形図を広げられ、項翼は半目のまま仕方なくそれを見遣った。
「とりあえずこの濠を囲うようにもう一つ塁を築くか。わたしの隊と項翼の隊で二方角を分担して土嚢を積む。怪我人には筵を編む仕事を回す。それが終わったら丘を下った場所に拒馬を置くことにして……って項翼、聞いてる?」
 耳心地の良い彼女の声は意味を持たない音として耳を右から左へと抜けてゆく。
 怒っているような、呆れているような、眉を顰めてこちらを覗き込む女の顔を傍目に項翼は気怠さの残る体に鞭打って立ち上がった。どのみちこの調子では、何を聞かされたところで明日の朝には綺麗さっぱり忘れていることだろう。
「俺はそろそろ帰るぞ。オマエもそのうち嫁に行くなら、こんな遅い時間に男を寝床に連れ込むんじゃねえよ」
 加えて、間違ってもここで夜を明かしてはいけないという最低限の理性だけは項翼の中にもそなわっていた。否、その理性がうずもれぬうちに、ここを出なければならないとも思っていた。一度や二度ではない酒の失敗を、明朝の如何ともしがたい烈しい羞恥を、敢えて記憶の中から拾い上げる。情動的なこの性格と酒の相性が悪いのは自明の理だ。
 しかし立ち上がろうとしたその瞬間、の手が項翼を阻んだ。
「まだ話は終わってないけど」
「退けって」
「それに、わたしだって誰彼かまわずってわけじゃないから」
 揺るがぬ視線。真剣な眼差しをもって発された彼女の「気を持たせるような」言葉は、項翼の鎮まりかけていた理性の箍を弾き飛ばし、情欲を一瞬にして烈しく喚起した。束の間、我を忘れた項翼は、気が付くとの体を硬い茣蓙の上に組み敷いていた。しかし眼下の女はといえば、わずかに目を見開いただけであり、息を切らす項翼とは裏腹にどこか冷静なように見えた。婚約者がありながら他の男に邪欲を向けられているこの状況で、やけに平然としているその態度に、項翼はますます乱心した。
「なにするの」
「意味わかんねェ」
 はちきれてしまいそうなほどに、全身の血管がどくどくと脈を打っている。見下ろした彼女がやけに艶めかしく映る。妙齢の女の、花のように甘やかな匂いが芬々と、その肉体から滲み出ているようで。はじめに項翼を突き動かしたものは倫理に悖る劣情に至る以前の、言わば男と女という括りだけに基づいた原始的な本能であった。
「んで抵抗しねえんだよ」
「……」
「しようと思えばできんだろ」
 拒絶されればその一過性の感情はおのずと消え失せるものだと思っていた。しかし、あろうことか彼女は一切の抵抗を見せない。
 酔余の熱に溶かされかけているなけなしの良心が、自身の振る舞いを糾弾する。しかしそれ以上に、彼女にこの状況を受け入れられている事実が勝った。肉体の端々にまで熱く満ちる欲が暴発し、わずかに残る理性が彼方に攫われてしまいそうな心持ちになる。
 なよやかな腕を地面に縫い付ける己の両手に力を込めても、は細い喉を小さく波打たせただけで、やはり抗うことをしない。脱力し、怒りでも焦りでもなく、ただその瞳にうら悲しさの色だけを映している。彼女もまたひそやかに己に許されない思いを寄せていたのだと、だからこそこのまま二人地獄にいざなってほしいのだと無言裡に訴えかけているような、縋るような眼差しにも思えた。もとよりその結論に至らしめるような要素が、項翼の中には点在していたのだ。
「なあ――」
「なに」
「このまま抱きてえ」
 いかんともしがたい直情的な本音を絞るように吐き出した。情趣もへったくれもない誘い方だ。
 しかし体裁を取り繕う余裕などあるはずもなかった。
「こんな据え膳、食うなって方がムリだろ」
 ひりついた鼻孔に、熟れた桃の香にも似た扇情的な香気がまとわりつく。いっそのこと愚劣な欲望のままに手酷く食らいつくしてしまいたいとも思えば、さかしまに、長い時間をかけて優しくじっくりと抱いてやりたいとも思う。果てなき渇きに思考が支配されている。これまでにないほどの、腹の底がのたくるような灼熱に、今にも体が溶けてしまいそうだ。いかにも男慣れしているような、しなをつくる酌婦らには決して真似などできやしまい。これは彼女の芯の強さをも包括した美しさゆえの高揚だ。固く閉ざされたその内面を、ほんのわずかにさらけ出すことを許されたその事実が呼び起こす満腔の幸福感であるのだ。
 ……と。恍惚感に浸っていた項翼の真下で、は己を縛るその力が緩んだ隙にするりと腕を抜け出し、黒々とした双眸を、自身を組み敷く男に差し向けながら静かにつぶやいた。
「ねえ項翼。手、貸して」
「手?」
 言われるがまま差し出した手に、の冷ややかな指先が絡みつく。そしてその手はあろうことか彼女の衿の合わせ目からするりと中に差し込まれたかと思えば、胸郭のふくらみへと躊躇なく押し当てられた。
 五指が抵抗なく沈み込むほどのあまりにもふわふわとしたその手ざわりに、心腑を鷲掴みされたかのような衝撃が走る。同じ人間の肌とは思えぬような、信じがたいまでにただただ柔らかな双丘。仰向けになり広がっている状態でもその豊かさは判然としている、まごうことなき女の官能めく肉体感。武に長けた彼女の、ほどよく筋肉がついた、引き締まった肢体に、このまろみを帯びた柔肉が乗っているのだ。未だ衣の下に隠されたの体を想像するたびに熱量は増す。項翼はこの上ない背徳感と興奮に背を震わせながら、その感触を堪能するべくこわごわと指の先を動かそうとすると。
「わかる?」
 細い声がそう問うた。何を尋ねられているのか分からずに小首を傾げれば、彼女はさらに項翼の手を自身の胸元に引き寄せるように抱く。あたたかな泥濘に手を吞み込まれたかのような感覚に、いよいよ自我が擦り切れそうなまでの昂ぶりを覚えたとき。
「心臓の、鼓動」
 そう促されて、項翼は自身の手のひらに与えられた感覚から音を手繰り寄せた。それは神経を研ぎ澄ましてようやく拾えるほどに、小さく、まるで静かな水面に葉雫が落ちる音にも似た鼓動。耳の中にまでガンガンと響いてくるような己のそれとはあまりにも正反対であって。
「ほら、貴方に組み敷かれて、触れられても、わたしなんとも思ってない」
「は?」
「何を勘違いしているのか分からないけど、そもそも誘った覚えなんて無いし」
 は恬淡とした表情できっぱりと言い切った。それは項翼にとって頭を思いきり殴られたような衝撃だった。自分を天幕に連れ込んだのも、引き留めたのも、まごうことなき自身だ。否それ以前に、彼女から好意を抱かれているという証左は思い返そうとすれば枚挙にいとまがない。それがこの期に及んで、関係を持つことは望んでいなかったと迂遠に言われたものだから、ますます意味が分からない。これまでのことを様々言い募ってやりたかったが、しかしそれよりも先に彼女が口を開いた。
「でも項翼のことが特別なのは本当。初めて見た時から仲良くなりたかったのも、あなただから許せることがたくさんあるのも。でもそれは男だからとか、女だからとか、そういうことではなくて」
「だったら何なんだよ」
 は一瞬言い淀み、それからたいそう気まずそうに告げる。
「……死んだ兄に似ていたから。貴方が」
 そう言われた瞬間、幾年ぶりかに項翼は思い出した。かつて自身のことをそう多くは語ろうとしない彼女に、興味本位で立ち入った質問を投げかけたとき、兄が一人いたが討ち死にしたのだと、その返答だけがぽつりと返ってきたことを。
 ほろ苦い昔日の記憶だ。それからの家族に関する話題には人一倍気を遣うようになった。景家の人間から冷遇されているであろうことも、彼女を取り巻く人間の機微から察していたことだ。だから項翼はその兄に関する委細を知らなかった。
 は訥々と語る。景染には男児がおらず、庶子である彼女の兄が後継者として景家に迎え入れられた。しかし軍事の知識も疎いまま戦場に駆り出され、景染に言われるがまま盲進するほかなかった彼は、ついに武運拙く百越との戦で命を落とした。この失態に景染は激憤した。そして同じ母から生まれた呪わしいに、兄が齎した「景家への損害」の責を負わせているのだと。成る程、彼女が百越との戦に固執気味であるのは亡兄の仇討ちもかねているところからなのだろう。
 彼女はそのような身の上話をしながら、懐旧の眼差しで項翼の顔を見遣った。
「すぐ調子に乗るところも、ガサツで無遠慮なところも、人相があまり良くないところもそっくり」
「オイ」
「でも強くてとびきり格好良い人だった」
 深い憧憬が滲んだ、澄みわたるような彼女の声に、項翼は息を吞む。無垢のままに思いをはせるその顔貌に、とうとう喉元まで迫り上がっていた恨み言の一つもぶつけることはできなかった。
「ごめんなさい。これからは純粋に仲間として、友人として接することができるように心がける。項翼は項翼。兄はもういない……うん。でもこれからも、近くに居させて。守らせて。貴方のことを大切に思う気持ちは変わらないから」
「馬鹿、逆だろうが。俺は女に守られるほどヤワじゃねえ。これからは自分を一番大事にしろよ。オマエの死んだ兄貴もそう思ってんじゃねえのか。……知らねえけど」
 ぶっきらぼうに言い放つとは僅かに瞠目し、すぐに我に返ったと思えば、さながら項翼の顔に重なる面影をかき消すようにしばたたく。それから寂しそうにゆるりと目を伏せて「そうかもね」と小さな声でつぶやいた。