五.望むらくは
はかさついた己の唇に舌を這わせた。ここ数年長逗留していた南方とは異なり、中原は急な風雨も霹靂もない穏やかな気候が続いていた。おそらく毒にも薬にもならない、名も知らぬ花が下草の中に点々と咲いている。気まぐれな微風に揺られているそれらを眺めて、柄にもなく良い風景だなという所感を抱いた。目の前に広がる景色の美しさを拾うことすら難しいほど、この数年せわしく生きていたのだ。短兵急なこの地への行軍を命じられた時には春申君の人使いの荒さに怒りにも似た呆れを覚えたものだが、しかし予想だにしなかった束の間の休息は確実に、己の心に多少の余裕をもたらしていた。とはいえおそらく秦領の偵察を任されている臨武君らがまたここに戻ってきたら、入れ替わりで再び南へ徒を拾うことを余儀なくされるに違いない。湘江を超えた先はうだるような炎天が降る。時季的には六月か、七月あたりだろうか、さなきだに草木も萎れる大暑である。仆れる者も少なからずいるだろう。
幾度か敵国の窺見を追い払った以外は、ことあれかしと願ってしまうほどに無味な、どこか不気味さを孕んだ穏やかな日々が続いていた。春のはじめ、秦が山陽一帯へ民を移り住ませたり、また趙軍が燕に攻め入ったりしてからは、やはりそちらの動向を見守らねばならなかったのであろうか、賊兵の姿はめっきり見られなくなった。そのうち劇辛討死の一報が届き、ほぼ同時期にの上官である景染は誰にも行き先を告げぬまま暫し本営を留守にした。
寡兵を連れ立って出たはずの景染は、北方へ視察に出ていた臨武君らと共にふたたびこの地へ戻ってきた。幾千の人馬の中心には立派な車駕があり、その中から堂々と降り立ったのはあろうことか宰相・春申君そのひと。無論、含め事情を知らぬ者たちは驚き固まることしかできなかった。仮にも殿上の人なのだからこのような戦線に出てきて良いはずがないだろう、と心の裡で独り言ちたが、いかんせん先見の明があるゆえに大胆すぎるきらいがあるのだ。昔から。景染は遥々御来駕あせられた宰相の随身として都に戻ることになるらしく、当然のごとくの隊も同行を命じられた。あっという間の有閑生活であった。
留別の挨拶にと各将の帷幕へ立ち寄っていたは、珍しく臨武君に呼び止められた。さりげなく春申君に関する話題を差し込むと、彼はの好奇心を汲んで少しばかり口を割ってくれた。
「李牧と密議を?」
「父親から聞いていなかったのか」
「ええ。ですがまあこんな辺鄙な土地に、遠い南から我々の軍を遣わして据え置くだなんて、よほどの事情とは推察していましたが」
春申君は無駄を嫌う人だ。わけもなくわざわざ万兵を動かすはずもない。この陣立てには相応の理由があるであろうことは知っていたが、それが大国の宰相同士の密議の場だとは思いもよらなかった。
「して、会談の内容は楚趙同盟ですか?」
「俺もはじめは同じことを考えていたのだが、そうではないらしい」
「ならばいったい、何のお話を」
「さぁな。これ以上は知らん」
きっと大きな動乱が旦夕に迫っている。しかしその怒涛に飲み込まれてゆくであろう同胞に一臂を添えることすらもかなわない。の戦場は南、敵は百越だ。ここを去ることを余儀なくされている身であることに、後ろ髪を引かれるような思いを抱えながら、臨武君の眼を見つめる。
「宰相は貴方様に深く信を置いているようですね。やはり北方攻略の前途に必要不可欠な存在だと判じられているのでしょう」
「偶々だろう。多少の悪口雑言も受けた」
「かの御方はもとよりそういうご性分であられますから」
良くも悪くも感情の発露が素直だ、と言うべきか。あの稚気芬々とした振る舞いを受け入れる度量もまた必要なのだ。臨武君はその点、うまい位置に納まっているのかもしれないな、とは思った。戦時はさておき、その強面に反してこうして対話をする分には案外穏やかな人なのだとは最近知ったことだ。
「都に戻ったら休めそうか?」
「いえ。おそらくは兵を新たにしたらすぐ南征に向かいましょう。貴方様がいなくなってしまわれてから対百越戦線は難戦を強いられておりますので」
「恨み言をぶつける相手は俺じゃあるまい」
「本人に言おうものならわたしの首が飛びますよ」
公然と不敬な放言をするわけにもいかず、視界の奥に待機する豪奢な車駕に目線だけを向けると、臨武君は口角に小さな笑みを浮かべる。
会話が途切れたところに、折よく景染の手の者がまもなく出立すると伝えにやってきた。
「白翠様に言伝があるのならばお受けしますが」
「余計な気を回す必要は無い。我々もいずれ輜重を整えに一度帰ることになるだろう。それよりも。お前こそ麗に言うべきことは言っておけ。また長らく会えぬやもしれん」
臨武君はそう言っての腰にひそかに下げられた佩玉を目敏く見とめる。白麗も、彼女も、戦場ではあまり互いの関係性を表に出そうとはしない。情実を排す苦しみを粛々と受け入れ、些細な手ぬるさも許さない、克己心に満ちた二人である。現に逢瀬もままならず引き剝がされようとしているは、幽愁の色すら一切見せない。
「言うべきことなど……」
は困り果てて押し黙った。会えないことは確かに寂しいし、悲しいと感じる。けれどもそれは軍部の同輩であるからで、許嫁という関係性をわざわざ主張してまで彼の邪魔立てをする気はなかった。仮に押し掛けたところで、相手が喜ぶとも限らないのだから、と、そう考えるだけで心が軋る。南紅瑪瑙の玉飾りも、暗夜の静寂の中で施された口づけも。きっと一時的な、乱脈とした青さの表れであって、彼と情が通じているという確たる証左を持つに足るものではなかったとは思う。しかしそれも一種の自己防衛と言われればそうかもしれない。白家が如何に優れた家門であろうと三閭には一籌を輸するほかなく、この縁は互いの身に万一のことがあれば、或いは何もなくとも、景染の一存で簡単に廃される可能性があるほど脆いものだからだ。
「まあいい。後顧の憂いは無用だ。麗が俺と共にいる限りはな」
臨武君はの肩をとんと叩いて励ましの言葉をかけると、その場を後にする。北方の軍情がいくばくか落ち着いたらたまには南にも顔を出して欲しいものだと、はその後ろ姿をしかと見届けることもせずに小走りで景染が待つ本陣へと戻った。去り行くその大きな背を目にするのが、まさかこの時が最後になろうとはつゆも思わずに。
は目をすがめて百越の寨をじっと見遣る。奇襲の機を待ち、気づけばとっくに陽も沈んでいた。戦車から臨む小高い視界からは、草間に潜む味方の甲が時折月の明かりに照りかえる様がよく伺える。この車は腰かけも御者台もひとつずつ、馬は二頭といった簡素なつくりをしている、最前線を駆ける指揮官が搭乗するものだ。言葉を換えれば真っ先に敵兵に狙われうるものでもある。後方の丘で戦陣を見つめる景染にとって、妾が生んだ娘はその程度の存在だった。
そのような夜のしじまを裂くように、のもとへ慌ただしく近づいてくる一騎があった。警戒した周囲の兵士がすぐさま武器を構えはじめたが、はそれを取りやめるように手を挙げて合図をする。部外者がこのように不用心に入り込もうものなら、外を囲む景染の軍にとっくに始末されているだろう。少なくとも味方である、と判じたがゆえだ。推察は正しく、正体は中央からの伝令だった。急停止してよろめいた馬の背で、なんとか体勢を立て直した伝者の男は、息を切らしながらに、今まさに中原で起こっていることを告げた。
「つまりは秦への合従侵寇か? 斉を除く五国の」
男の冷静さを欠いた口状、その発言の断片を拾い上げて継ぎ接ぎしたは、己の口から出た言葉を半ば疑いながらもそう問う。宰相の命令一下で十五万の兵が動いているという事実は、簡単に飲み込めるものではなかった。
「さ、さようでございます!」
「して、上はなんと」
「景染軍はひとまず都に戻り、禁門を守護するようにとのことです!」
つまりはも上官に附して戻らなければならない。斉軍と相対するという想定した最悪の事態は免れたが、しかしは苦渋に満ちた表情を隠しきれなかった。
「この地の戦況を勘案しても軍部はそう判断すると? 中原ばかりに夢中になるのも困りものだ」
「わ、我々にはなんとも」
「宰相がそう御沙汰あせられたのであれば我々は従うほかないが、遣る瀬無いな」
そこまで言い切ると、は八つ当たりのような真似をしてしまったことを伝令の者に詫びた。景染軍が北方へと遣わされていたおよそ半年の間で対百越戦線は大きく押し戻されていた。それをこの地に戻ってから文字通り死に物狂いでなんとか小康状態まで回復させたばかりなのだ。しかし軍命に反することは許されない。は細い眉のあわいをぐっと狭めて、麾下に撤収の指示を出した。
都へと戻る途次、は思わぬ凶報を得ることとなった。
豈図らんや、伝令が告げたのは臨武君の陣没である。訃に接し、は当惑に揺れた。左右の者たちもたちまち色を失い、に縋るような眼差しを向ける。これまでの戦で臨武君の死を想像しなかったことが一度も無かったかと言われれば嘘になる。けれどもそれは遠洋の舟のように、はっきりとした輪郭を帯びずにぼんやりと浮かんでいるものだった。それが唐突に、揺るぎない事実として眼前に突き付けられて冷静でいられるはずがない。途端に四肢の先端までもが強く脈動し、瞬きや呼吸すらも忘れるほどの感情が一頻り身体の中で熱く暴れまわった。
身を切られるような激情に耐えながら、は将としてつとめて冷静に、伝令にその情報が確たるものであるかを絞り出すように問う。そうしてもはや覆らない事実であることを知るなり、込み上げた感情をぶつけるように荒く手綱を引いた。遠い戦場で何が起こったのか、その委細を知る由もないがともかく、あの人はこんなにあっさりと死んでしまっていい人ではないのだ。かつて景染に無理矢理連れられ南の戦場に放り出された頃、臨武君を授封される前から彼の背を目で追ってきたにとっては、あまりにも信じがたい、残酷な事実だった。
次に頭の中を過ったのは白翠のことだ。夫と弟を戦地へ送り出し、ひとり帰りを待っていた彼女のもとに、今回の報せはいち早くもたらされているはず。彼女の悲しみようはひととおりではないだろう。は縹渺たる遠くの空を見た。この世界で悲しいことなどなにひとつ起こっていないのではないかと勘違いしそうになるほどの、鮮やかな青が天際まで広がっている。誰の所為にもできない。この戦を興した春申君も、第一線に据えた汗明も、そして敗れた臨武君自身も。何者も咎められぬがゆえに、清々しい天までもが憎らしく思えて仕方がなかった。
中央に戻ってほどなくしては東の国境付近に窺見を放ち、合従軍から離反した斉側の動向に注意を向けるよう命じられた。兵力だけで見れば合従軍側が圧倒しているこの戦、秦攻略の公算は大きいと見込まれてはいたが戦況は予想以上に難航していた。開戦初日に将を失う損害をこうむった軍部の重く張りつめた空気は禁門を守護する兵士たちへ、そして市井の人間にも確実に伝播している。どこにいようと居た堪れないような雰囲気だった。
まもなく、戦は合従軍の撤退という形で幕を下ろした。
任を終え東方から撤収したは、そのまま数名の護衛を率いて臨武君の邸へと向かった。軍部の者として、そして仮にも縁者となる身として、やもめとなった白翠と向き合わずにいることに少なからず負い目を感じていたからだ。とはいえ彼女に会ったところで何ができるわけでもない。自身も未だ心の整理がついていなかった。邸に到着したは良いものの、見え透いた慰めはかえって白翠を傷つけるのではなかろうかと改めて考えると面唔を請うことも憚られる。
「殿?」
「……あ」
そうしてまごまごしているところを衛兵に見つかり、邸の中に招き入れられたは白翠が起居する房に通された。寂寞の満ちた部屋の中、侍女に声を掛けられた彼女はいたく憔悴した様子で、脇息に手をついてゆったりと半身を持ち上げた。差し向けられた目はうつろで。それでも眦に必死に力を込めようとしている様子はあまりに痛ましく。ふと、その姿が、兄を喪ったときの母のそれに重なった。戦に非力な女の入る隙などないということを、ますます感じさせる可憐さだった。
「麗の無事は確かなのですか?」
「はい。そのように聞いております」
「ああ……。良かった」
安堵ゆえの虚脱感からか、白翠は立ち上がったかと思えばその場にゆるゆると頽れた。支えようと咄嗟に伸ばした腕の中で、彼女は長い睫毛を伏せながら、しかしはっきりと言葉を洩らす。
「優しいあの子のことだから、きっと私に申し訳が立たないと思って、ひとりで苦しみを抱え込んでいることでしょう。あなたにもそれを隠そうとして、冷たく突き放すかもしれません」
白翠の言う通り、きっと彼は己の弱さを素直に曝け出そうとはしないだろう、とは思った。景染の一存で破約されかねないこの関係性。自分が傷つかぬよう一線を引いていたがゆえに、肝心なときに彼の心に踏み込めない。痛みに寄り添えない。押し寄せる後悔の波にただじっと耐えていたの腕に、白魚の指がそっと添えられた。
「麗のそばに居てあげてくださいね」
柔らかく繊細な声に秘められた芯の強さを感じ取ったは息をつめて静かにうなずくと、白翠をねだいまで運んでやって部屋を罷り出た。暫くその場に立ち竦んでいたの耳に、やがて厚く閉ざされた帷の向こう側、隔絶された房の中から蚊の鳴くような嗚咽が聞こえてくる。そのあまりの悲痛さに、耐えきれず溢れてきた涙を袖で拭った。
薄暮の中、帰路に就こうとしたの前に現れたのは、征途から戻った兵たちの細い列だ。戦ではたとえ大敗を喫したとしてもそれを決して認めてはならない。勝ち味が十分にあったのだから尚のこと。民衆にはあくまで函谷関からの撤退であると喧伝された。それでも帰還した彼らの、生色の無い顔は、屈辱的な敗北を物語っていた。
ことに臨武君の軍はかなりの兵を損じた。開戦後まもなくして秦将騰により臨武君が討ち取られ、統率を失った兵士たちは混乱に見舞われた。そのうえ将を失った彼らは楚軍の沽券を失した責を取る形で媧燐によって捨て駒同然に扱われるという憂き目にあい、壊乱同然の状態になったのだ。
「か?」
名を呼ばれ、馬上の主を仰いだは目を瞠った。会いたいと、そう望んでいた人物があろうことか目の前に現れたのだから。
「白麗、」
まるく中性的な美しさを湛えた顔には、無数の傷が走っている。しろがねの甲冑には乾いた血が黒くこびりついており、そのことに気づいたは息を呑んだ。弓を得物とする彼は接近戦をしない。返り血を浴びるはずがないのだ。その血が誰のものかは言うまでもなかった。
「どうしてここにいる」
「白翠様を見舞って、その帰り道」
白麗は己を深く責め立てているような苦々しい顔をして、そうかと呟いた。彼もまた覚悟を決めて自身の姉に戦果報告をするべくここを訪れたのだろう。
「……姉上は何と」
「貴方を案じていた。それ以外は何も。したたかな方だと思う」
身を切られるような喪失と孤独に耐えながらも、決して怨嗟を口にしなかったのは、将軍の妻たる毅然とした矜持だ。
「咎めないのか」
「そんなこと」
「臨武君を死なせたのは俺のせいだ。お前にすら合わせる顔がなかった」
端麗な顔を苦痛に歪ませて、吐き捨てるように白麗は言う。その常ならぬ様子には当惑した。戦場を共にしていた数年前、楚国きっての弓使いと囃された彼は若くしてその卓越した腕にたがえぬ自負心に溢れていた。前線で戟を振るうはいつだって助けられてばかりで、だから白麗の慰め方を知らない。いざその痛々しく憔悴しきった姿を目の前にして、人目も憚らず抱きしめてやることも、或いは胸に蟠る怒りや悲しみを余すことなく発露することもできなかった。どれも彼を慰めるに足るものではないだろうという、意気地のない自身の振る舞いを正当化する言い訳を心の裡に並べながら。
「いまはゆっくり休んで。その怪我、深いでしょう」
「ああ。肩から腹にかけてばっさりとやられた。この傷さえなければ――」
と言いさして、また苦しそうな顔をする。宵の入りを告げる風に吹かれて、左右に流されている髪が数条その顔にかかったが、白麗はそれを振り払う気力すら持ち合わせていないようだった。こんなとき項翼であればなんと声をかけるのだろう。案外、憎悪を煮えたぎらせながらもどこか冷静な様子で、頭を切り替えるべきだと、そう言い放つかもしれない。あれは問題行動こそ多々あれど、人を引っ張り上げる将の資質は誰よりも抜きんでている男だ。
ならば自分には何ができよう、と、は口ごもりながら言葉を選ぶ。
「白麗。その、わたしでよければ頼って。ほら……薬とかも煎じてあげられるから」
「それは遠慮しておく。お前のは効きが良すぎる」
穏やかな声ながら間髪入れずにすっぱりと断られたことに驚いたが両目を丸くすると、彼はわずかに緩頬する。土色の顔に、わずかばかり赤みが戻ったような気がした。
「おかげで腹構えができた、姉上のもとへ行ってくる。それと、南に戻る前に少し時間をくれないか」
「時間?」
「二人でゆっくり過ごす時間が欲しい。俺の邸でも、お前のところでもいい。できれば景染将軍には内密でな」
どこか気恥ずかしげに申し出された逢引の約束。その底意を汲み取ったは静かに頷いた。