三.ほぞを噬む
婚約者の姉君は白翠という名で、それは可憐な人だった。長い睫毛の奥に儚さを湛えた目元。小鳥のさえずるような澄んだ声。白い玉臂には瑕のひとつも無く、控えめに纏められた雲鬟が彼女の楚々とした美しさを一段と際立たせている。なにより姉弟揃って端然とした顔立ちをしているものだから、初めのうちはふとした瞬間に、彼女の面差しによく婚約者である白麗の姿が重なって、そのたびに心腑が縮み上がるような思いをしたものだ。
血生臭い戦場を生きる自分とは、まるで正反対だとは思った。とはいえ貴人の娘とは元来こうあるべきであって。生傷の絶えないこの身体で白翠の元を訪れることに、それも彼女の弟の婚約者として挨拶に伺うことに、は難色を示していた。腹違いの妹である珣永然り、少なからず嫌厭の情を抱かれるだろうと覚悟を決めていたからだ。しかし他でもない白麗からの頼みであったから断るわけにもいかぬまま今日に至り、臨武君の邸から遣わされた迎車に渋々と乗り込んだのが数刻前のこと。結論から言えば目論見は外れた。それも大外れだ。どうしてかは今、義姉の前に背を向けて座して、彼女の嫋やかな手に髪をくしけずられている。
白家との婚約が調ったに、新嫁となるための修養を授けてくれようという者は、景家の邸には言わずもがな誰一人いなかった。三従四徳の戒めは女として生きる上での規範。形だけの婚約とはいえ、最低限の嗜みすら身に着けていないとなればそれは白家に対し義理を欠くことになる。だが頼れる人間は故郷の村邑に生きているであろう老いた母だけであって、しかし戦場に生きるには母に会うことは叶わない。もといと亡兄は幼い頃その約束で景染の邸に連れてこられたのだ。
は悩んだ挙げ句、恥を忍んで婚約者に相談をした。幼少の砌から得物ばかり握ってきて、針や糸など触れた試しも無いと。戦場の勇ましげな姿とは打って変わって、すっかり怯懦な顔をする彼女を見た白麗は人を紹介してくれた。それが彼の姉にあたる人物である。唐突な申し出には面食らった。婚約者のみならず、彼の姉君にまで、自分の素養の無さを露呈させるような恥を晒すことはできないと慌てて固辞したが、結局は白麗の勢いに押し切られてしまった。
「姉上も会いたがっていた。良い機会だろう」
などと言われてしまえば断りようもない。
かくして臨武君の邸に連れて来られたであったが、おおかた予想通り婦功の習熟からは程遠い腕前で、針仕事にしろ遊芸にしろ不得手も不得手といった有様。そうこう苦戦を強いられているうちに瞬く間に時は過ぎ、辺りは気づけば夕映えに包み込まれていた。は長居したことを詫び、急いで邸を罷り去ろうとしたが、白翠が彼女を引き留めた。
「疲れてしまったでしょう。よろしければ泊まっていかれたら如何かと思って」
孔雀の尾羽にも似た長い睫毛をしばたたかせながら、はにかむ美しい女。呆気に取られているの背後より侍女頭から「湯殿も準備してございます」と声が掛かった。客人のために水盤に湯を張るというのは最も手厚い歓待にあたる。
義姉となる予定の人物とはいえ、今はまだ他人の間柄。そんな彼女からここまで丁寧なもてなしを受けることに疑問を抱きながらも、しかし無碍にするわけにもいかず。結局は不承不承と申し出を受けることにした。生傷の絶えないの身体を気遣ってか水盤には薬湯が張られている。湯殿には侍女が数人控えていて、湯が減れば新しい湯を汲み、室内が冷えれば炉に火を熾し、終いにはの長い髪を洗うとまで言い出したものだから大層驚いた。景家にも風呂番の侍女が居たが、少なくともが湯殿に居る時はろくに仕事をしていなかったからだ。
(結局、湯あたり寸前まで存分に寛いでしまった)
と自省しつつ湯殿を出て、しつらえが済んだ客殿の榻にしなだれかかっていたのもとに、白翠は再び現れた。
茫としていた重い頭を急いで擡げて居住まいを正そうとすると、彼女はそれを白磁のようにすべらかな細い手でやんわりと制し、の隣に腰掛ける。衣に焚きしめられた匂いが仄かに鼻腔をくすぐった。
薄絹の寝衣から透いて見えるの背に無数の傷痍を認めた白翠はその痛ましさに眉根を寄せながら、侍女頭に付薬を用意させ、の衣をそっと脱がせると湯上がりの汗ばんだ肌に手を這わせる。肌膚の割け目から鮮烈な赤が顔を覗かせるまだ新しい傷には、殊にその薬が強く沁み入って、痛みの波が背を鋭く駆け抜ける。
「ごめんなさいね。けれども膿んでしまったらもっと大変ですから」
白翠にそう言われてしまえば黙って受け入れる他なかった。閉口してただ耐えていたであったがそのうち痛みにも慣れてきて、やがて意識は己の背をすべる白翠の指端の、ささやかな感覚に惹き込まれていた。
己の垢染みたそれとは違う、いとも簡単に手折られそうな指先から与えられる慈しみに、むず痒い気持ちになる。生来、女とは斯様に柔く、脆く、甘やかな香気を纏う生き物なのだと。だがか弱いばかりではなく、傍に在るだけでどこか得も言われぬ安らぎに包まれるような、男には決して醸し出すことのできない術を持っているのがまた不思議だ。
それに比べてわたしは――とは己のかどかどしい拳頭を、何度も擦り切れてすっかり固くなってしまった掌を、まじろぎもせずに眺めやった。あっさりと捨てた女としての生を、今更惜しいと思うなどなんと情けないことか。しかし女として生きていたならば、景家に貰われずに故郷の邑で今も母と二人で暮らしていたのならば。戦場に立つこともなく、白麗と出逢うことも無かった。如何にせよ相互に両立し得ない望みが新たに生まれて心の中で勝手にせめぎ合っているこの現状は、ただただ苦痛である。そして皮肉にもの傷心を慰めるのは白翠のどこまでも優しい手つきだった。
「髪。梳いてもよろしいかしら?」
「ええと」
「気が進まないようでしたら、そう仰っていただければ」
「いえ、その。嫌いではない……ですが」
米のとぎ汁で丹念に洗われた髪はするりと櫛が通るほどのなめらかさで、白翠の指が油を馴染ませるたびにまるで絹のような光沢が自身の髪に宿ってゆく。可愛らしいと、ひそやかな溜め息の混じった声でそう洩らされるたびに、嬉しさとも悲しさともつかない混淆とした感情が押し寄せてはほとほと困却していた。あれほど欲していた女らしさというものがいざこの身に芽生えると、己の心の有り様とのちぐはぐさが浮き彫りになる。博古架に並べられた鮮やかな綵縷、おそらく彼女の手製であろう刺繍小物。貴人の女とはかくあるべしといったならわしも、には理解できない。白翠が自身の手で世話を焼きたがる理由も、おおよそはあのような飾り物をめでるような感覚に似ているのだろうか。
そのようなことを考えている傍で、白翠は行李から寝衣一具を取り出しての背にそっと着せかける。腰に手を回されてゆるく結ばれた帯には可愛らしい繍花があしらわれていた。
「なりません。貴女様の大切な召し物に、薬の匂いが移ってしまっては」
「お気になさらなくても大丈夫」
たとえ弟の婚約者という関係性があろうとも初対面の人間に施す恩顧にしてはあまりに度が過ぎるその優しさに、思わず眩暈がした。それは景家で散々、人を人とも思わぬ者達の悪意に翻弄されてきたにとっては、素直に受け止めきれぬほどに過分な慈悲であり、それゆえ訝しみさえ覚えていた。
「どうしてこんなに親切にしていただけるのですか」
白翠が穏やかな心性を装ったその胸の裡で何を考えているのか。深い翳りを帯びた顔で疑問を投げかけるに対し、しかし彼女は優しく、その見目にも似通った清らかな心を以て微笑みかける。
「だって麗のお嫁さんになる方ですもの」
「まだ決まったわけでは」
無力さに心をすくませながら絞り出すように口にした。己の運命は権威ある父の思惑によって簡単に捻じ曲げられるものだ。よしんばあの男が白家と縁を結ぶ約束を反故にすることがなかったとしても、に与えられた三千の将という壁は白雲の立つ空の彼方まで見上げるほどに高く、白麗と華燭の典を挙げる未来など到底、想像もできないものだった。
「あら。私達ったらもう可愛い義妹ができるものだと思っていたのに」
「私達?」
「夫から話を聞いて、貴女に会える日をとても楽しみにしていたの」
「臨武君が、ですか」
「ええ。”南部攻略の功は、紛れもなく千人将の力添えがあってこそ”と」
は内心驚いていた。あの臨武君が、陶酔的なまでに己の強さを疑わずにいるような男が、たとえ美しい妻に対する虚栄心ゆえであったとしても己の武勲に他人の功を認めるなど俄かに信じ難い。そんなの心の裡を察したのであろう、白翠は淡い唇に穏やかな微笑みをのぼらせた。
「あの人は自信家で、負けず嫌いで、不器用で。素直にお礼も伝えられなかったかもしれないけれど。意外とね、感謝しているんですよ。そういうこと」
しみじみとそう言った彼女はそっと立ち上がるとあらたにの眼前に腰を深く下ろして、力無く下げられていたの手を取ると、幾度となく皮が擦れたその表面を慈しむようになぞりながら目を伏せた。
「私の夫のために、懸命に戦ってくださってありがとう」
長い睫毛が細く震えている。寸分でも己の指先に力を込めれば瞬く間に砕けてしまいそうだと、思わず錯覚してしまうほどのなよやかさに、はなんとも後ろめたい気持ちになった。というのも確かに、臨武君が武功を挙げるためのお膳立てをしたのは自分自身であるのだが、それは上官であり実父でもある景染の命令ゆえだ。どれほど酷な命令だとしても盾突くことは許されない。子は父を裏切ってはならない。景家の名に泥を塗ってはならない。あの時のの覚悟は景染への絶対的な恐れと、臨武君の義弟にあたる白麗への僅かな善意で成り立っていた。
「百越と対峙したのはただ上官命令だったまで。それが偶然にも臨武君の軍功に結びついただけです。感謝されるようなことなんて何も」
視線を逸らし露悪的にそう呟くと、白翠はきゅっと眉を顰めた。うら悲しさを帯びたそのかんばせは西施もかくやといったような可憐さで。
「ねえ。あの子に……麗に大切にしてもらっている?」
「え」
「だって寂しいことばかり言うものですから」
唐突な問い掛けに戸惑いながらも、は白麗の姿を思い浮かべてみた。互いの関係性は許嫁となってからも変わらない。恋情よりも同年輩の武官としての仲間意識の方が勝っているように思える。とはいえ彼はわたしに良くしてくれていると思う。けれども心の内奥までは分からない。
などとは実姉である彼女に正直に打ち明けることもできず、は暫しの沈黙のあと言を左右にした。
の居室は後罩房の西に位置する離れにある。もとは垂花門の手前に普請された物置小屋のような場所で兄と起き伏ししており、兄亡き後もそこに住み続けていたが、仮にも白家に嫁ぐ身となったことで邸の深奥に移された。とはいえに対する扱いは相も変わらずであり、使用人たちは滅多にこの場所に寄りつかず、眼前の小さな中庭はろくに手入れもなされずに土が剥き出しのまま、望磚の壁もところどころ剥がれている有様だ。多雨な楚の気候的に建造物の中は湿気が溜まりやすく、従軍で邸を空けることが多いがこの場所に帰ってくるとおおよそ黴の匂いが充満していて、まずは家什を庭先に出して日に晒し、布ものは干すところからはじめなければならない。
そんな邸の一隅に予期せぬ来客があったのは夕暮れも近くなってきた申刻頃である。
外壁を隔てた向こう側から不審な音が聞こえるのをはっきりと感じ取ったは反射的に戟を手に取り、息を潜めながら壁に背をつけた。やがて視界に映った人影の挙動に胡乱さを認めると、すぐさま部屋から躍り出てその人物の眼前に戟刺を突きつけようとした……が、すんでのところで相手の得物に軌道を逸らされてしまう。
「――ッぶねえな。オイ」
「あ……項翼?」
そこにはこの頃「楚の雷轟」という二つ名が定着しつつある軍部の同輩、項翼の姿が在った。ちなみにその初出は定かではない。項翼自身が言い出したのか、もしくは誰かがそう呼んだのか、どちらにせよその呼び名を一番気に入っているのは彼自身だ。
「ったく。俺じゃなかったら死んでたかもしれねェぞ」
胡乱者もとい項翼は剣を鞘に収めながら友の性急な振る舞いに苦言を呈した。とはいえまさか普段はほとんど戦場で顔を合わせるのみである彼が、景家の邸に、それも無断で入り込むとは思わなかったにとってその物言いは少々不服である。
「とりあえず中に入って。誰かに見られたら面倒だから」
「おう」
手早く項翼を居室に押し込んだは、周囲に人の目が無いことを確認しながら自身も中に入る。押掛客らしい厚かましさで、このせせこましい空間で唯一寛げる牀の上――無論、そこはが普段起居している場所である――に堂々と腰掛けた項翼。遠慮の欠片も無いその態度は相変わらずだ。
は溜め息を吐きながらも酒盞を項翼の前に差し出し、部屋の隅に置いてあった壺の中からわずかな酒を注いでやった。それは酒が得意ではないでさえ半酣にすら至らないほどのわずかな量である。寒さをしのぐために大事に取ってあったものだが、致し方あるまい。昵懇の間柄であっても礼儀を疎かにしてはならないことをは知っている。
「ごっそーさん」
「で、どうしたの?」
「ああ、麗の隊と合同練兵すっから誘いに来たんだ。なかなかにでけえ規模だぜ。せっかくだから見にこいよ」
用兵術とか戦略とか小難しいこと好きだろ、と付言した彼に、は静かに頷く。項翼の隊と白麗の隊は兵種の構成も得意な戦術も、そもそも将の性向からしてちぐはぐだが、裏を返せば二隊が合わさると多彩な戦法が採れる利点がある。なにより彼らは昔馴染み同士、ぴったりと息が合う。両隊併せて二千の精鋭兵から成る一糸乱れぬ陣立ては壮観だろう。
「麗もやたらとオマエに会いたがってたしな」
「そうなんだ」
「もっと嬉しそうにしろっての」
あの眉目秀麗な婚約者に多少なりとも好かれているという事実は喜ばしいことだが、あまり執心してはならない。余計なことに心を砕いてばかりいてはいずれ軍務に支障をきたす。死と隣り合わせの戦場で、情というものは悉く切り捨てなければならないものだ。だからは、白麗が己の中で大切になりすぎることが怖かった。彼女の得も言われぬ凛とした冷たさにも似た雰囲気は、この世のあらゆる愉楽に対する拒絶であり、白麗に対する素っ気なさもおおよそ似た類いの感情ゆえであった。
「というか、それを伝えるためだけにわざわざ景家(うち)に来たの?」
「まァな」
「使者の一人くらい遣わせれば良いのに。それか書信でも」
「使者を送っても不在だとかなんとか理由を付けられて門前払いを食らうのがオチだ。書信もどうせオマエのところには届かねえだろうから、俺が直接来てんだろーが」
「それもそうか」
良くも悪くも項翼は景家の内部事情というものを察してくれていた。にとってはここが針の筵であることも、何も言わずに理解しているようだった。こういった勘が鋭い上に、誰にも憚らず気になったことは明け透けに聞き出そうとする彼元来の性格に、は己の不遇を包み隠そうとすることを止めた。
「んで結局、どうすんだよ」
「お邪魔じゃなければ行こうかな。項家と白家からの誘いならば景染将軍も断ることは無いと思うから。あとさ項翼」
「あ?」
「次は正門から入って。闖入者みたいで嫌」
とはいえその無神経な性格にはこのように悩まされることもある。
そのようなときはがはっきりと項翼を諭してやるのだが、素直に謝罪をすることは殆ど無く、おおよそは自分の正当性について主張しはじめるのが常である。
「バカか。結婚控えた女に会いに来てるだの何だの、変に噂立てられて麗に迷惑かけらんねえだろ」
「いや。むしろ塀を飛び越えて侵入する方が怪しい。誰かに見つかって媾曳きでも疑われたらどうするの」
も大概頑固なきらいがあるからして水掛け論になるまではとことん言い返す。普段であればの返しを受けた項翼はますます息巻いて更に声を荒らげるはずであるが。しかし今日に限ってはどうしてか唐突に、瘧が落ちたように緘黙した。
「項翼?」
「……」
不思議に思って呼びかけてみるも返事は無い。仄暗いこの部屋では、長い前髪がかかった彼のかんばせは影が落ちているかのように暗く映る。
「媾曳きっていうのはね」
「オイ。ガキ扱いすんじゃねえ」
「分かっているなら何か言い返してよ」
それから一度たりとも視線を交わすことなく、項翼はやおら立ち上がると、戸惑うをよそに外へと歩を進めた。
「とりあえず麗を迎えに行かせるから準備しとけ。オマエの親父にも伝えるように言っておく。じゃあな」
「あ、うん」
颯爽と辞去する友。取り残されたは、はっとしてその後を追ったが、既に寂れた中庭のどこにも人影は無く。
「変なの」
項翼が乗り越えていったであろう塀の向こう側を眺めやりながら、は小さな声で独り言ちた。
「毎朝清潔な布に替えて、三日もすれば傷は塞がるだろうから。あとこれ黄精を煮だした薬汁だから飲んで。きついけどかなり効くと思う」
「千人将、これ苦いッス」
「我慢。どうしても嫌なら反鼻の黒焼きもあるけど」
「いやそれは……遠慮します」
項翼隊と白麗隊の三日に及ぶ練兵は無事に終わり、都に戻る前の、最後の夜を過ごす軍営の一隅にもまた天幕を張っていた。中からは強烈な薬の匂いが漂ってくる。肌脱ぎになった兵士らの切創に手早く処置を施し、各々に見合う薬を調合して捌いていく様は熟練の衛生兵も顔負けの手際の良さだ。
「景家の令媛に手ずから治療を施して貰っておきながら泣き言とは、我が麾下ながら情けないな」
その様子をいつのまにか窺っていたらしい白麗が、今まさに彼女に手当てをされている麾下に苦言を呈すると、彼は跳ね起きるように背筋を伸ばし、そのまま若い主へと恭しく額ずいた。
「白麗様! も、申し訳ございません!」
「さっさと飲め、彼女も早く休ませてやらねば明日の出立までに疲れも癒やせまい」
「は!」
薬汁を仰ぐと逃げるように辞去したその男のほか、天幕には処置を待つ数人の兵がいたが、いずれも手当てを受けると急ぐように出て行った。白家と景家の縁談が調った事実は限られた人物しか知り得ないが、どことなくぎこちない両人の雰囲気と、項翼に比べれば十分に礼儀は弁えているはずの白麗が夜半に一人での寝床を訪れた事実から、おおよそ察しが付いたようだ。露見しても都合が悪いわけではないと判じ、白麗は特に何の弁解もせず麾下たちを見送ると、入り口の帳を下ろした。
「こんなことまでさせて悪いな」
「好きでやってるだけだから。練兵も見せてもらったし、そのお礼。それよりも項翼と酒盛りしてたんじゃないの?」
「翼の奴ならたらふく飲んですぐ寝た。今しがたアイツの手の者に世話を任せてきたところだ」
「それはお疲れ様」
が床に広げていた薬材や道具らを片付けている間、どうしてか白麗はその様子を見遣るだけであった。彼が何かしらの目的をもってここを訪れたことは自明の理であるはずが、何をするでもなく佇立しているのだ。ふと生まれた僅かな緊張感を意識しだしたの心は落ち着かなかった。やがて徐々に充溢しはじめる静寂と密室に二人きりといった状況に耐えかね、平静さを装いながら言葉を継いだ。
「ところで何か用だった?」
再び訪れるしじま。互いの呼吸の、一息々々が鮮明に耳に響く。いよいよが訝しげな目をくれてやると、白麗は観念したかのように長い呼気を吐いた。それから自身の懐から布包みを取り出し、慎重な手つきでの眼前に差し出す。
「……なに。これ」
「受け取ってほしい」
ただ声色は決意を込めるように、確然とした響きをもっていた。真剣な眼差しを湛えた彼の黒々とした両眼が、寸分の揺るぎもなくへと向けられている。戸惑いながらも促されるまま包みを開けると、そこには麗しい佩玉がひとつ。傍にある油燭の灯りを照り返し、はたまたその内に閉じ込めて、上品な艶を生み出すのは鮮やかな南紅瑪瑙。
ただの贈物というわけではないその意味を、はなんとなく知っていた。
――ねえ。あの子に……麗に大切にしてもらっている?
白翠の言葉がふいに、脳裏にこだまする。あの問いに言葉を濁してしまったことがこの佩玉を贈られた理由のひとつであるならば、彼に申し訳ないことをしたと、は罪悪感に睫毛を伏せた。
「白麗、ありがとう。でも」
「結んでも良いか?」
「あ……うん」
動揺が舌先にまで伝わっているようだ。千兵を束ねる将とは思えぬほどたどたどしい口吻で申し出を諾すると、白麗はの隣に腰掛け、身を乗り出し、神妙な表情で彼女の帯紐に触れた。その帯紐と腰のあいだに佩玉を通すゆとりを作るべく、指先がぐっと差し込められる。目のやり場に困ったは顔を横に逸らした。
「気持ちは嬉しいけど、わたしのことはあまり気にしないで。祝言まで無事に生きているかも分からないし」
生き続けなければならない、戦い続けなければならないその枷が、こうして増えてゆくのが怖い。自分なんかに心を砕いても何も良いことがないと、は麾下の前では決して見せることのないうら寂しそうな顔で言う。
「俺を鰥夫にするつもりか」
「いや、その」
「冗談でもそんな残酷なこと言うな」
佩玉を結び終えた白麗はその手での体を静かに抱き寄せた。普段は厚い甲冑の下に隠されているその身体は武人とは思えぬほどのたよりない痩躯で、白麗はそのあまりの華奢ぶりに驚く。元々食が細いことは知っていた。戦の最中、項翼も交えて三人で食事を共にする時はたいてい、ひもじさを嘆く項翼に彼女が自身の食べ物を分け与えている光景を見るのが常であった。陣中食すらほとんど口にしているところを見たことがない。その理由までは、今の白麗には分からない。
「もうお前一人の体じゃないんだ。死ぬ気で生き抜け。俺もそうする」
白麗の言葉に、はハッとして目を見開く。それから緊張しきっていた身をゆっくりと弛緩させ、広い胸に頭を預けた。
「貴方を悲しませたいわけじゃなかった。ごめんなさい。……こんな時、項翼みたいに悩みなんて一つもないような心持ちでいられたら良かったのに」
「あのバカでも悩みの一つくらいはあるだろ」
「そうなの?」
腕の中から聞こえるくぐもった声に愛しさを覚える反面、項翼の名を出すと心なしか弾む彼女の声に複雑な気持ちが芽生えてきて。子供じみたその汚い感情に蓋をするように、白麗は彼女の背に回す腕にますます力を込める。
「やっぱりアイツの話は止めだ」
幾許か時が経った。天幕を照らす二つの油燭のうち片方の火が不規則に明滅して消えた。白麗の髪が、瞳が、ますます夜陰に溶け入って、さかしまに彼の白皙たる肌がくっきりと浮かび上がっている。筋の通った鼻梁や、逞しい首筋に、の心臓は一際鼓動を大きくした。不思議だ。これまで戦場で男衆に混じり生きてきて、そこに生まれ持った自分の性など殆ど意識したことがなかったくせに。先ほどまで裸の男たちを相手にして何の感情の起伏も生まれなかったこの胸が、今たしかに白麗によって搔き乱されている。よこしまな考えを振り払おうとも、心の汀に荒波のように次から次へと押し寄せてくるものだからきりがない。
「白麗、そろそろ」
は白麗の腕から逃れようとするも、さらに強い力で引き留められた。少年のような丸みを僅かに残した麗しいかんばせの裏に、ある種あの傲然な項翼すらも凌ぐほどの矜持を秘めている彼の、唐突に見せつけられる雄々しい強引さ。それはもはや己の胸につかえる切なさの正体を知ったにとっては毒にしかならない。
「もう少しだけだ」
「……」
「またどうせ暫く会えないだろ。キリがないよな、百越との戦は」
「内地の方が大変でしょ。こっちはまだ気が楽。難しいこと、あまり考えなくて良いからさ」
「そうか」
またも会話が止んだ。白麗がふいに上体を離し、の輪郭にそっと手をすべらせる。諦念にも似た、感情の凪いだ瞳。けれども眼差しの奥底に薄く刷いた情炎の色を見逃さなかった白麗は辛抱たまらず唇を重ねた。音も言葉も、何の前触れも無く呼吸を奪われたは目を瞠る。視界いっぱいに映る婚約者の眉目があまりにも美しく、一瞬、何が起きたかさえ分からなくなったが、ようやく自分の状況を把握すると慌てて抵抗しようとした。だが腕に力が入らず、そればかりかぞわぞわとした疼きが下腹の奥から湧き上がるばかりだ。息苦しさにあえずいてようやく解放されたかと思いきや、角度を変え、再び口唇が覆い被さる。ゆるゆると脱力した体は、白麗の腕によって支えられゆっくりと横たえられた。垂れ下がった射干玉の髪がまるで幕布のようにの視界を閉じ込める。
やがてもう一つの油燭の火も消えた。とうに夜も深まっている。辺りに人の気配は無く、遠くに僅かに明かりが灯っているのみだ。都から遠いこの地には他に夜闇を照らすものは無い。それゆえに月光は冴え冴えとし、星辰はいっそう数を増して輝いていた。