二.玄雲を穿つ

 国都の郢は、元は宰相・春申君が封じられていた土地である。昭王の代に入ってから急速に国力を増している秦国の勢いに押され、逃げるように十数年前に遷都した場所ゆえに歴史としては新しい。穏やかな古い街並みをまるで踏み荒らするように建設された王侯貴族の住処はどこか異質な匂いを纏っている。
 が帰る場所はそんな郢の一等地に設けられた荘厳な邸だった。周囲は堅牢な塀で囲われており、さらにその外や物見台から兵士らが絶えず哨戒している。門扉を潜ればそこには中原の文化を真似て造られた前院があり、緻密な彫刻が施された壁塑が大きく立ちはだかっていた。屋内に入ると商人から買い上げた数々の陶磁や美術品が出迎えてくれるが、その顔触れは毎度異なっている。古く草臥れたものは廃され、より美しく新しいものが代わりに並べられる。まるで我ら楚人がかつて蛮夷と呼ばれ蔑まれた過去を棚に上げ、先進的な美風を尊び寂れたものを軽侮する、この邸の主の人相を如実に映し出しているようだ。
「ただいま戻りました」
 が遠地から帰還しても、使用人は頭を下げるどころか手を止めることすらなく、せわしく各々の仕事をしている。まるで誰もそこに居ないかのように。この邸の気風に染まりきった彼らもまた「寂れて劣った文化を持つ民族の血を引いている人間」を軽侮の対象としているのである。ここにやってきたばかりの幼い自分はたいそう傷ついたが今となっては慣れたものだ。
 帰路で雨に打たれた体を温めるために浴殿へ向かおうとしていると、廊下の向こうから侍女を連れ立った女が歩いてきた。その全身は豪奢な装飾品で溢れていて、身ごなしも傲慢である。まるで品が無い。恐らく高貴な美しさの本質を履き違えているらしい女にその事実を教えて差し上げようという者はこの邸には一人も居ないようで、それが余計に彼女の勘違いを肥らせている。
 女はこちらを見るなり、嫌悪感を剥き出しにした表情で、わざとらしく鼻をつまんで声を上げる。
「ヤダ。戻ってきていたの? 泥塗れだし汗くさいし最悪だわ。さっさと離れに行きなさいよ」
「景染将軍に挨拶に伺っていただけ」
「あっちに行って。聞こえなかったの?」
 しっと虫を払うように手を動かしながらも、しかし女は自分から距離を置こうとはしない。あくまでも己の労力を割かずに、指図して動かしたいようだ。とはいえ自身も稚拙な嫌がらせに一々反発する気は無い。さっさとその場を立ち去ろうと背を向けると、どこ吹く風といったこちらの態度に腹が立ったのか、彼女は嫌味っぽく言葉を発する。
「あんたもホントしぶといわねー。早く大好きなお兄さんのところに行ってしまえば良いのに」
「……」
「白家もこんな野蛮な女を嫁に貰おうとするなんて物好きね。どうせ相手もあんたに似てパッとしない男なのだろうけれど。あーあ、アタシもそろそろお父様に頼んで素敵な殿方を紹介して貰おうかしら」
 彼女の名は景珣永という。歳はの一つ下で、この邸の主である景染将軍と魏国の名家の出自である正妻との間に生まれた嫡女。そしてにとっては腹違いの妹でもある。憎いことに体の半分は彼女と同じ血が流れている。
 は景一族の庶子で、上官である景染将軍の実娘だ。
 母は地図にも描かれていないような小国で生まれた、卑しい出自の芸妓だった。崇高な中原の民と、蛮夷。まさに尊ぶべきものと、軽侮されるもの。父である景染の価値観を大きく受け継いだ珣永はが目障りであるらしく、事あるごとに心無い言葉を浴びせてくる。そしてこの頃は、散々蔑んで見下してきた異母姉の婚約が決まったことが気に食わなくて仕方が無いらしい。

 ――この邸は、わたしにとって針の筵だ。
 身体を清めて離れにある狭い私室へと赴き、腰まで伸びた長い髪を自らの手で拭き上げる。正嫡ではないにしろ半分は景家の血が流れているであるが世話をしてくれる侍女は一人も居ない。少しでも彼女に味方をすれば、この邸から排されることを皆が知っているからだ。
 最後に誰かの手を借りてめかし込んだのは千人将に昇格した論功行賞の時であっただろうか。景染将軍の娘として公の場に赴く際は、景家の威厳を損なわぬ為にも、当然身形を整えなければならない。そういえば白麗との婚約が決まったのもあの場であったと、は褥に湯冷めした身を横たえながら、在りし日の記憶を思い起こしていた。

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 宮城の正殿は既に多くの官吏で埋め尽くされていた。まるで夏の蒸し暑い夜のような人いきれにはすぐにでも帰りたい気持ちになったが、それをぐっとこらえて歩を進める。しかし歩幅が狭い。幾重にも巻き付いた曲裾のすそが脚の自由を奪っている。普段は胡服で一日の殆どを過ごしているであるが今日ばかりは式典の場ということもあって綺羅を飾る羽目になった。だが如何せん窮屈だ。眼前にちらつく歩揺の飾りも、耳朶に垂れ下がる玉も、ひらひらと宙を漂う披帛も鬱陶しい。華美なのはあまり好きではない。
 少しばかり陰鬱な気持ちになっていたが、ふと眼前に捜していた男の姿を発見し、はぱっと顔を綻ばせた。その隣には先の戦で自分の命を助けてくれた彼の友も居る。は気を取り直して二人の元へと駆け寄った。
「おはよう項翼。今日の祝宴では、お酒はほどほどに。前みたいに酔っ払って人様に絡んでは駄目だからね」
 が項翼の肩を軽く叩いてそう話しかけると、振り向いた彼は普段のような荒くれた返事の代わりに、訝し気な視線を呉れて寄越した。眉根にぐっと皺をよせ、お世辞にも良いとは言えない目つきで繁々との姿を見る。
「誰だ? ……どこかで会ったことがあるか?」
「何言ってるの? だけど」
「はあ? はあああああ!?」
 突如正殿に響き渡るほどの大声を上げた項翼に衆目が一気に集まる。驚愕した様子で固まるその姿は、まるで化生でも見たかのような反応だ。いつにも増して失礼がすぎる。
「いやいやいや。オカシイだろ!? そんな、ちゃんとした女みてえな恰好!」
 宰相の席から「静かにしろ!」と怒号が飛んできたが彼の耳には届いていないようだ。
「元々ちゃんとした女なのだから可笑しくはないでしょう」
「普段化粧なんか全然してねえだろうが! そんなギラギラした衣装なんて見たこともねえし」
「命懸けな状況で自分の身形まで気を遣う余裕なんて無いわ」
「つ、つーか前の論功行賞の時は普通だったよなァ?」
「あれはお父様・・・の付き添いだから、いつもの装いだっただけ。今日の論功行賞はわたしたちが大王様に拝謁するのだから礼装で参朝するのは当然よ」
 が凛とした態度で言い返すと、途端に我に返った項翼は閉口して、乱れた前髪を整えながらふいっとそっぽを向いた。心なしか、頬に赤みが差しているような気がする。
「ったく。オマエがそんなんだと調子狂うぜ……」
「具合でも悪いの?」
「バッ、バカ! 俺に近寄るんじゃねえ!」
「はいはい」
 伸ばした手を振り払われ、いよいよ相手が面倒になったは項翼の肩越しに見える白麗に一揖してから腰を下ろす。
「麗」
「どうした」
「アイツ……結構可愛かったんだな」
「そういうのは本人に直接伝えてやるのが一番だと思うが」
 密やかに交わされていた二人の会話はしっかりの耳にも届いていたが、聞かなかったことにした。

 は南部開拓戦の功で千人将へと昇格した。
 不利な寡戦であっても臆することなく伏兵や奇襲兵を森に忍ばせて相手の意欲を削ぎ、結果的に百越をますます南に押し込めて領土を奪うことに成功したこと、そして当時三百将ながら、将官を失った他隊の兵士たちを見事に纏め上げたことが評価された。
 また項翼と白麗も同時に千人将となった。個々が武芸に秀でていた彼らは異民族相手の戦闘よりも、自ら平原の名高い敵将の首級を上げて武勲を立てる方が性に合っていたらしい。北部の秦や魏との戦で活躍していると南部まで噂が届いていたほどだ。
 論功行賞後の酒宴の席では景染の隣に侍りながら静かに酒食を口にしていた。本当は気の知れた項翼の隣で楽しく酌み交わしたかったが、景染が自らの労をねぎらいにやってきたものだから、彼の体裁を保つためにも席を離れるわけにはいかなくなったのだった。
殿。千人将昇格おめでとうございます」
「恐れ入ります」
「いやはや女性でありながら素晴らしい。さすがは景染将軍の娘御だ」
 景染に阿る高官らから幾度となく褒めそやされたは内心飽き飽きとしながらもその朱唇に愛想の良い笑みを浮かべていた。誰もが景染の顔色を窺いながら薄っぺらい世辞を滔々と語る。自身の存在意義は、彼の娘であるということ以外何も無い。
「ときに景染殿。家督は殿に継がせるおつもりで?」
「いや。その予定は無い」
 一人の男がそう問うた。景染には嫡子が居ない。だからこそ妾出のの兄が跡継ぎとして迎え入れられたが、成人する前に死んだ。それからますます景染は蛮夷の血を忌み嫌うようになった。いずれ分家の男児を迎え入れる腹積もりらしいが、余所者のはその辺りの事情を詳しくは知らない。
「では折り入ってご相談が」
「よかろう。。いったん下がれ」

 それから数日後、演練から戻ったは珍しく邸に帰ってきていた景染に呼びつけられた。何事かと急いで馳せ参じると、そこには客人が居た。論功行賞の際に景染へと話しかけていたあの男だ。彼はに恭しく首を垂れて、白家の取次役であると名乗った。
「白家……白麗千人将の?」
「如何にも」
 突如として馴染みの名前が出てきたことに驚きつつも用件を問えば、景染は思いもよらない言葉を口にした。
「縁談だ。暗々裏に進めさせてもらった」
「…… ……え?」
「既に相手方も了承している」
 白家はここ数年間で台頭してきた武門である。最近は白麗の義兄にあたる臨武君が将軍となったことで益々勢力を増した。景染も白家を用心していたとは知っていたが、それが思わぬ形で手を結ぶことになろうとは。
(……わたしに今更女として生きろと仰るのか)
 とは思ったが、相手方からすれば景家と繋がりを持つことができれば誰だって良いのだ。一方の景染としても、景家の武威が白家を凌いでいる現状を鑑みると、嫡女の珣永ではなくより価値の劣る妾の子を差し出すべきだと判ずるのは当然の帰結である。しかし当のはそこまで思考が回っていない。
「では今後ともよしなに」
 戸惑うをよそに取次役の男は辞去した。
「――さて」
 景染は俯いたまま黙り込んでいた娘に冷ややかな声で語り掛ける。
「白麗千人将が成人を迎えるまでは引き続きこの景家に、偉大な父に尽くせ。そして白家相手に下手に出ることは俺の矜持が許さぬ。千人将如きで貴様の亡兄が齎した損害は到底清算できぬことを心得よ。三年後までに三千の将となれ。そうでなければ認めてやらん。貴様に非を押し付けて破談にでもしてやろうか」
 景染はじつに手落ちの無いような男で、の交友関係や義理の娘への負の感情を熟知していた。三千人将など土台無理な話だ。だからといって投げ出すわけにもいかない。破談にして白家に迷惑を掛けるなど以ての外。八方ふさがりだ。そもそも景染の課した条件は、暗に、を使い潰すための口実である。しかし諾するしか道はなかった。

 それからは気鬱な日々だった。景染の言うの兄が齎した損失とは、景染の麾下三千人を預けられた彼が百越との戦で隊を壊滅させ自身も戦死したことを指している。曰く景家の戦力を削いだばかりか、代々楚の大臣を務める系譜の次代当主という立場を奉戴しながらその期待をも裏切った罪であると。
 馬鹿げている。とは思った。
 辺境の村邑で慎ましやかに暮らしていた兄に甘言を弄し連れ去ったのは景染だ。見込み通りにならなかったからといって、仮にも血を分けた息子にすべての非を被せようなんてまともな人間の思考ではない。
 だがそんな父親には付き従うしかなかった。老いた母はもはや景家の手を借りねば生きていけないほど羸弱している。亡兄の遺品も奪われたまま、彼がかつてこの世に生きた証は一つたりとも手元に残ってはいない。この男が死ぬまで、は戦い抜かねばならない。