一.嫩葉の残屑
目を凝らせば、空には薄らと星々が浮かび上がっている。日入が近づいていた。戦場の声は未だ止まず、それどころか迫る夜に背を押されるように烈しさを増している。たったひと月前まで、自分の居場所はそこに在ったはずだった。夕焼けが照り返ったの瞳が、懐かしさに揺れた。
「もう良いだろう。戻るぞ」
声を掛けられると同時に、手枷がぐいと引っ張られる。擦り切れた皮膚の痛みに、歯を食いしばって堪えながら踵を返そうとした。その時だった。
――不意に、風を切る音と共にの隣に立っていた男の躯体がぐらりと揺れる。
驚きと戸惑いが混じった短いうめき声を上げて視界から消えたその姿を目で追うと、地に伏せている男の蟀谷に一本の矢が突き刺さっていた。彼は絞り出すように、二、三度血を吐いてすぐに絶息した。目を見開いたまま虚空を見つめている、まだ温かい亡骸に手を伸ばし、そのこうべを擡げてみれば、矢羽と貫通した鏃がまるで獣の角のように頭部から突き出ている。
束の間の出来事であった。きっと己の身に何が起きたのかも分からぬまま逝ったのであろう。死に顔に苦痛を感じた様子は無く、ただただ呆然とした表情が貼り付けられていた。
は息を呑んだ。たった一条の矢で、この男が自分に手を掛ける隙すら与えぬまま命を奪った。夕闇がにじり寄り、視界が徐々に朧気になる中で。それも寸分の狂いも無く、甲冑に守られておらず、骨の薄い急所を射抜いたのだ。偶然ではあるまい。なんせこの場所にはこの男と二人きり。周囲に人はいない。こちらを狙わぬ限り飛んでこない矢だ。
畏怖の念すら覚えるほどの業だが、それを成し得る人物をは知っていた。その証拠に、これほど明確な殺意が篭った矢に対して恐怖心は微塵も感じていない。
立ち上がり、遠くの景色に目を向ける。懐かしい旗印が揺れていた。見紛うべくもない。黒く塗りつぶされた点のような人だかりの中、姿は見えずとも彼の存在を見る。痺れるほどに鋭く狭められた、黒曜石の如き眼が脳裏に蘇った。二度と見ることは叶わぬと思っていた。かつて自分が心を奪われた彼の眼差しは、今もまっすぐにこちらを見据えているのだ。
は無我夢中で手枷を切り離し、それから弾かれたように白刃が光る戦場へと丸腰のまま駆けた。痛む四肢を懸命に振って滑るように奔る。数多のしがらみは、とっくに脳裏から消えていた。
//
撤退後間もなく軍議に呼ばれたが天幕に戻ったのは、とうに日が落ちた初更の頃だった。甲冑を脱いで衣を捲り、小さな手燭の下で自分の肌と対面すると、そこには無数の赤が滲んでいる。
率いる千人隊は前衛部隊である。危険の追随する立場ではあるが、首級をあげやすく、武功を稼ぐことができる。ゆえに自ら進んで第一線で戦うことを望んだ。立身出世の道は険しいが、退くわけにはいかない理由がある。
部下は血気に逸る者ばかりだ。自ら陣頭に躍り出ようという人間は大方、そういった性格をしている。その将である自身が、左右の者に守られてばかりでは示しがつかない。部隊の士気を高める為にも、は本来の無謀な戦法は好まない慎重な性格をぐっと押し殺して、己の体長ほどの大きな戟を勇ましく振るい、露払い役を進んで買っていた。
だからこそ大なり小なり怪我は免れられない。それでも構わないと思っていた。灼けるような疼痛も、いつ命を落とすか分からない恐怖も、にとっては些細なことだった。誉を得ることができるのであれば。自分の力を認めてもらえるのであれば。大いに意味はある。
この時期の楚は霖の季節だ。傷が乾きにくく治りが早いが、丁寧に処置を施さねばすぐに膿んで腐る。は手際良く道具を広げた。乾いた薬草を鉢で擂り潰し、水の中に溶いたものを布に染み込ませ、固まった血をほぐしながら傷口を清める。武の道を志すよりもずっと幼い頃から怪我が絶えなかったせいか、傷の処置は今や手慣れたものだ。女子らしくもなく美しい花卉には興味を抱かず、薬になり得る植物だけはめっぽう詳しい子供だった。
懐かしい記憶を思い出しながら感傷に浸っていると、ふと涼しい夜風に紛れて微かに、馬蹄が地を蹴る音が聞こえた。忍ぶように静かに近づいてくる、たったの一騎。その音の主を察したが薄い単衣のまま天幕の外に出ると、闇の中から姿を現したのは読み通りの人物。白皙の肌は月光に照らされて美しさを際立たせていた。
「白麗!」
名を呼ぶと、軽やかに馬から降りたその男は自身の外套を脱いだ。
「仲夏とはいえ夜は冷える。それと、人前でそのような恰好をするな」
貴方だから良いかと思って――と喉元まで出かかった言葉を堪えて、は自身の立場を思い、身を小さくして頭を下げた。
「ごめんなさい。わたし貴方の、その」
「そこまで怒っていない。俺はお前の父親じゃないんだから、落ち込むなよ。とりあえず中に入ろう」
しおらしいは、戦の時とはまるで別人のよう。こちらが本来の姿と知って久しいが白麗は未だ慣れずにいる。小さく身震いした彼女の肩に脱いだ外套をかけて、ぎこちなく手を回しながら、天幕へ入るように促した。
「大きな怪我は無いか?」
「間一髪のところで避けられたから、浅い傷で済んだ」
「それは良かった」
「今日も白麗の矢に助けられた。ありがとう」
先陣を切るには常に命の危険が付き纏っている。白麗からしてみればそれは好ましくないことだ。できることならば彼女には平穏な暮らしをして欲しいと思う。しかし厄介な事情があるのだ。自分の立場ではどうにもできない事情が。
暗闇が垂れ込んだ天幕の中央で膝をつく小さな背中。甲冑を脱げば彼女は普通の女性となんら変わりない。武器を振るうには頼りない、華奢な躯体。柳腰。血が少なく、赤みの抜けた肌。ここに生きていることが当たり前ではない。いつ消えてしまうかも分からない儚さを湛える彼女に、白麗は縋るように手を伸ばし、腕の中にそっと閉じ込める。
「あ……」
「中々、二人きりにさせてくれないからな。互いの部下も、翼の奴も」
唐突に背後から抱きしめられ、は息を呑む。天幕には二人きりとはいえ、誰がいつ訪れてくるかも分からない。拒むか否か、迷っているうちに込められる力はぐっと強まった。思いを寄せる相手に触れられる束の間の幸福は、荒んだ心を癒してくれる唯一の安らぎだ。……今日くらいは甘えても良いだろうか。そう思って静かに目を閉じた。白麗の腕に身を委ねれば、熱情を孕んだ彼の吐息が耳を掠める。体の芯が疼く。ゆっくりと彼の方へ振り向き、暫し見つめ合う。それから、どちらからともなく唇を重ねようとした――その時。
外から大袈裟な咳払いが聞こえた。瘧が落ちたかの如く、二人を包んでいた情欲的な空気はさっぱりと掻き消える。
弾かれたように立ち上がり、外に出れば、そこには眉間に深く皺を寄せてわざとらしく苦り切った顔をする男が佇んでいた。
「オイ。臨武君が呼んでるぞ」
嫌悪感剥き出しの表情でそう言い放つ男は、白麗の幼馴染で、とも仲が良い千人将の項翼という青年だ。
「やだ項翼。いつからいたの」
「チッ。途中からだ。だから迎えに行くのは嫌だったのによ」
「見たんだ」
「不可抗力だろうがよ。こっちの身にもなってみろ。ったく」
恥ずかしさに上気する頬を抑えながら狼狽するの傍らで、白麗は忌々しそうに幼馴染をねめつけながら立ち上がる。
「はあ……翼。お前、そういうところだぞ。まったく」
「ハァ!? 俺がワリィってのかよ!」
不服を唱える項翼と、わざとらしく大きな溜息を吐く白麗。二人の後を追うようにわたしも天幕を出る。触れられた肌は、夜の冷気に当てられてなお、恋しさを助長するように熱を帯びていた。
//
白麗との出会いは、南部開拓戦の最中。百越と呼ばれる異民族との戦いが長年続く土地でのことだった。
三日前、上官の千人将が死んだ。その男の名を冠した隊の責任は、事もあろうに先の戦で三百将になったばかりののもとにやってきた。麾下の命を預かるという重圧ですら耐えがたいものであるのに、十五の自分がどうしてこのような命を与えられたのか。その答えは薄々分かっていた。将を失った兵たちは、怨敵を倒すべく異常なまでに熱意を燃え上がらせる者や、反して捨鉢になっている者ばかりで、統率など取れたものではない。上はこの隊を使い潰すつもりだ。その為には己が役割を理解してなお逃げ隠れしない従順な急先鋒が必要である。
彼らの目論見通りは逃げない。否、逃げられないと言うべきか。
将としての責務を果たすべく、帷幕に戻ったは一人で軍略を練っていた。盤上に付近の地形を再現し、駒を動かす。そうして二、三刻が経った頃、外に人の気配を察知した。その来訪者は挨拶も無く帷幕に上がり込むと、隣にどかっと座った。
「よう」
その男――項翼はと年が近い三百将だ。項氏といえば楚では有名な士族の系譜で、彼もその血を引いているはずであるが、その挙措はあまり褒められたものではない。口が悪ければ礼儀作法にも疎く、お調子者ですぐに敵を煽る。喧嘩っ早く騒ぎを起こすこともしばしば。その荒っぽさは、心の底から恐れている人を彷彿とさせるから苦手だ。しかし任侠を重んじる項翼の人柄だけは嫌いではない。
彼とは一年ほど前の論功行賞で初めて会った。恩賞を与えられた身内の付き添いで参加した祝賀会でのことだ。は暇つぶしで酔って絡んできた彼の愛刀自慢を凝りもせずに聞いてやったのだが、項翼はそれが嬉しかったらしく、それから戦で会うたびに話しかけられるようになった。酒が入っていなくても面倒な絡みをしてくると後々判明してから、とんだ狂犬に懐かれてしまったと後悔した。だがには拒もうとも避けようとも思えなかったとある理由があった。だからこそ関係は続いているが、とはいえ未だにその振舞いには悩まされる。
「入るなら一言くらい声を掛けて」
「別にイイだろうが」
「着替え中かもしれないでしょう」
「気にする玉じゃねえだろ」
「さすがにそれは酷いと思う。まあいいけれど。それで用件は?」
項翼は腰に提げた瓢の中身を呷って、溜息を吐く。
「淳速が死んだ」
「……そう」
彼の口から洩れ出たその名はと同じ隊に所属していた若将の名だ。自分たちよりも僅かに年配で、面倒見が良く、頼れる男だった。二日前に大怪我を負って戦線から離れていたが、衛生兵の懸命な処置も虚しく回復することはなかったようだ。彼が生きていれば、に御鉢が回ってくることもなかったであろう。
「驚かねえのな」
「正直、耐えるかは五分五分だった。仕方が無い」
は顔を上げぬままそう答えて、自軍の後陣に置いていた淳速の駒を摘まんで除けた。死を悼むよりも、彼の復帰を見込んで立てた作戦がすべてご破算になったことを残念に思うなんて、随分と冷淡な人間になったものだ。
「聞いたぜ、臨時千人将」
「冷やかすのはよして。烏合の衆を押し付けられて本気で迷惑してるんだから」
「お望みとあらば助太刀してやるよ」
「結構。項翼が割り入ったらうちの隊はますます崩れる」
「あ?」
「将を失って殊に疲弊しているの。怖いもの知らずな貴方に振り回されたら本気で使い物にならなくなる」
「そうかよ」
項翼は暫しが頭を悩ませながら駒を動かす姿を眺めていたが、半刻も経たないうちに立ち上がった。戦略を練るというようなまだるっこしい行為は、出たとこ勝負が常な彼には退屈であったらしい。
「もう帰るの?」
「悪いな。戻らねえと麗の奴がうるせえから」
「そういえばずっと気になってたんだけど。その麗っていう人は、項翼の恋人?」
麗という名は項翼と知り合ってから時折彼の口から語られていたものだ。詮索は失礼にあたると思い、どういった関係なのかは聞き及んでいなかったが、どうやら戦にも街に遊びに行くにも一緒の相手らしい。麗という音の響きや、項翼の親し気な口調から勝手にそういう関係だと思い込んでいた。
思い切って訪ねてみるも、項翼はすぐに返事を寄越さなかった。は仲間の訃報を耳にしても動かさなかった視線をようやく上げて彼を見る。すると項翼は耐え切れずにぷっと噴き出して、それから腹を抱えてゲラゲラと笑い始めた。
「もう。何が可笑しいの?」
馬鹿にされたような気分になって顔を顰めるに、項翼は「会わせてやるから着いてこい」と告げ、帷幕を出る。笑いすぎて苦しそうにしているその背を思い切り叩いてやりたくなる衝動を抑えながら、はふくれ面のまま彼のあとに続いた。
が起居している小さな帷幕から丘を一つ越えた先には、一万弱の兵を擁する大規模な屯営地があった。篝火は夜空を赤く染めるほど無数に点在し、夜討に備えて哨戒にあたる兵士たちの陰影を映し出している。大将は臨武君という武官で、項翼の三百人隊も彼の軍に属していた。
「臨武君の軍営はどこぞの決死隊とは違って壮大だなー。それにしてもわたしたちは同じ三百将なのに、この扱いの差はなんだろう? 貴方が項家のおぼっちゃんだから?」
が不服そうに愚痴を洩らす。
「ちげーだろ。つうかその論だとオマエも――」
「おい」
項翼が口を開くと、その言葉を遮るように、背後から凛とした鋭い声が飛んできた。
「最近やけに外をほっつき歩いていると思えば。女をたらしこんでなんのつもりだ」
振り向くとそこには若い男が立っていた。
絹のように滑らかな黒髪を夜風に靡かせる彼は、女性と見紛うほど端正な容貌をしている。怪訝そうに、額に皺を寄せながらこちらを見つめるその姿に戸惑い、項翼に視線を向けると。
「馬鹿言え。コイツも俺たちと同じ三百将だ」
彼はを指さし、どこか揚々とした笑みを浮かべながらそう言った。
「それよりも探す手間が省けたぜ。麗」
「は?」
は項翼の言葉と親し気な二人の様子から関係性を瞬時に察知した。同性の幼馴染を、恋人と疑られれば笑ってしまうのも無理はない。あそこまで馬鹿笑いされたことに関しては気に食わないが。
項翼がを紹介している間、当のはまじろぎもせず「麗」の姿を見つめていた。女である自分が悲しくなってしまうほどの美しさを湛えている。誤解が解けるにつれ、その表情には僅かにへの心咎めが滲んでいるように思えた。どうやらこちらはまともな感性の持ち主であるようだ。普段から荒くれ項翼の歯止め役になっていることは容易に想像がつく。
「悪かった」
一頻り項翼が話し終えると、彼は不躾であったことを詫びた。あどけなさが残る少年のような面構ながら挙措は雄渾な武人そのもので、その意外性にの心は静かに揺らぐ。
「……いえ」
「つーわけで麗だ。白麗」
一方の項翼はやっとの方を向いたかと思えば、目があった途端、唐突にここに来た理由を思い出したらしい。「麗のことをずっと女だと思ってたらしいぞ」と肩を震わせて笑い出した。はその様子を見て呆れたように溜息を吐く。
「翼の面倒を見るの、結構大変だろ」
「うん。本当に」
一人でここまで愉快になるのはある意味才能だと零せば、白麗はくしゃっと笑う。はなんとなく面映ゆい気持ちになった。
その日から項翼が尋ねてくる時には白麗の姿もまたそこに在った。
「仕事中だったか。邪魔をしたな」
「ううん。それにしても今日も一緒なんだ。仲が良いね」
「に会いに行くっつーと勝手に着いてくんだよ。気になってんじゃねーの?」
そう言って幼馴染を揶揄うような下卑た笑いを浮かべる項翼を横目に、白麗は動揺を一切見せず、至って冷静に反論した。
「監視役として同行しているだけだ。人様に迷惑を掛けないようにな」
「あと単身で敵陣に乗り込んで暴れ出さないようにね」
「ああ」
二人が意図せず息の合った会話を披露すると、それが気に入らないのか、項翼は額に青筋を立てながら静かに拳を震わせる。は今にも火を噴きそうな彼の様子を察し、戦果報告を記していた竹牘からそっと手を離した。
「オイてめえら俺をなんだと思ってんだ」
「狂犬? あ、痛い痛い」
案の定、骨ばった拳がの頭をぐりぐりと抉った。
「テメーも麗みてえに取り澄ましたツラしてんじゃねえよ! 俺の居る時は溜息ばっかりなくせによ」
「それはそう。項翼ってばわたしが寝る時間にやってくるし、長居するし、一人で勝手に酒を飲み始めるし、それに」
「ああ!?」
「翼。止せ」
はもとより人付き合いが苦手なきらいがある。死と隣り合わせの戦場を生きる中で余計なものを抱え込む覚悟など無ければ、近寄ってくる人間は大抵、権力に貪婪な者ばかりだったから嫌気が差したというのが理由だ。だからは項翼に出逢うまで友人というものを持ったことがなかった。なんなら項翼とも、とある私情が無ければこうして付き合い続けることもなかっただろう。
項翼に白麗を紹介された時も新しい縁ができたことに辟易したが、だからといって拒めば今度は項翼との関係がこじれてそれはまた面倒なことになると考え、どうするべきか迷っているうちに仲は深まってしまった。……今更、拒むことなどできようか。
篠突く雨が、烈しく地面を叩く音で目覚める。
は飛び起きると、部下たちを森の中へと避難させた。
音もなく降り続いていた連日の小雨とは比べ物にならない悪天候であった。霖の時期であってもこれほどの風雨は珍しい。鈍色の厚い雨雲がどこまでも続く空を覆い、地上は薄闇に沈んでいる。
雨でぬかるんだ悪路での戦いは無駄な兵力を浪費するゆえ、天候が落ち着くまで戦いの手を止めるというのが一般的だ。しかし言葉の通じない異民族相手には中原での戦の理は通用しない。たとえ天が荒れようが、彼らは領土を奪われまいと死に物狂いで攻めてくるであろう。この戦の総大将たる男――景染は三百将以上の武官を帷幕に集め、戦いの手を緩めるなと命じ、それぞれに重い任を与えた。
「ホント、景染将軍ってオマエに手加減しねえよな」
「そうだね」
軍議を終えて各々が持ち場に戻る中、項翼はに憐みの目を向けた。景染は率いる千人隊に、前線の死守命令を下した。一番の汚れ役である。それをよりによって彼女に割り当てることにより、あの男の冷酷無比な人間像がより昭然と形作られてゆくのだ。
「臨武君のお膳立ては任せて。戦線は守ってみせる」
隊のみを前線に残す理由はもう一つあった。
それが臨武君という五千将の存在である。彼は類稀な武力を誇る傑物で、敢えて敵陣の眼前に本陣を構えては、意気軒昂と攻め込んでくる敵の猛者を次々と屠る戦法を取る。しかしそれが弊害となり、ここ数日、敵は臨武君を警戒して防衛戦を決め込んでいて、自軍は充分な成果を挙げられないでいた。悪天候で補給線は安定していない。兵站にも限りがある。あぐねた景染は臨武君を下げ、隊という餌を撒くことにした。
また将軍への昇格を目前に控える臨武君にとって此度の南方侵略での実績は非常に重要なものとなる。油断した敵を誘き出したところを、彼に繋げ、多くの首級をあげてもらうためにも必要な役割だとは承知している。
――国のためにも。臨武君との結婚を控えている白麗の姉のためにも。
「クソ百越の土塁をぶっ壊したらすぐに援護に行ってやる。それまでへばんじゃねえぞ」
「ありがとう」
と項翼がそのような会話を交わす一方で、白麗は酷く不服そうな顔をしていた。二人とは違い、彼に与えられた命は「待機」だ。厳密には臨武君の援護である。閨閥関係というのもあるだろうが、そもそも白麗隊は隊長である本人をはじめ弓兵に重きを置いた編成であるから、悪天候という条件には滅法弱いことも大きな要因だ。それでも仲間が傷つく姿を黙って見ているしかないというのは、白麗にとっては歯痒いものであろう。
「危なくなったら命を無視して俺の隊から援軍を派遣すれば良い。この荒れ模様では弓隊を動かすのは厳しいが、重騎兵も歩兵もいる」
「白麗隊は待機命令が出たでしょう。あの人に叛いたらお定まりの折檻が待っているから、絶対に大人しくしていて」
「」
「大丈夫。わたしは責務を全うする」
余裕そうな笑みを浮かべて取り繕うが、不安を押し殺しながら強がってみせていることに気付かないわけではない。
無謀だ。統御できていない急ごしらえの千人隊に、次々と押し寄せる百越の猛攻を凌ぐことなどできやしない。だが、この場でにそう告げることは、すなわち彼女の覚悟を否定することと同義である。白麗は薄い唇をきゅっと歪めて、悔しそうな気色を浮かべながら視線を逸らした。
何かを言いたげな白麗の顔は、見ないふりをした。
考えていることはきっと同じだ。きっとこの安普請のように脆い千人隊は、そう長くは持つまい。だがは将として隊の機能をできる限り存えさせなければならない。この程度のことで挫けていては、武人として立身出世する夢など見る資格も無いだろう。
(……やはり友など持つべきではなかったかな)
余計な感情を持つと思考が濁る。ただ与えられた任だけを遂行すれば良い。白麗の気持ちなど慮っている暇は無いのだ。は要らぬ思考を振り払うように、己の両頬を大きく叩き、自陣へと駆けた。
「さあ鼓を打ち鳴らせ、弩をつがえよ! 派手に行くぞ!!」
が声を張り上げると、耳を劈くような雨音をも掻き消すように、麾下たちの咆哮が戦場に轟いた。本来の隊らしくもなく、百越を誘き出すために、鼓や銅鑼を一段と響かせる。
――これではまるで汗明大将軍のような臨場だな。少し苦手なんだけど。
内心そう感じながら敵軍を見遣ると、こちらの騒がしさにつられて先鋒隊がこちらに攻撃を仕掛けようとしていた。は軍配を大きく振り上げて、森の中に隠していた弩隊に合図を送る。すると飛箭が一斉に放たれ、雨に混じり降る利器が次々と敵兵を貫いてゆく。
弩隊を敢えて森の中に配置したのは作戦だ。こちらの兵数が千人であることが露見すれば、敵はその戦力差で一気にこちらを潰しにかかるであろう。真っ向勝負では明らかにこちらの旗色が悪くなってしまう。あたかも伏兵を忍ばせているように振舞い、敵の警戒心を誘いながら時間を稼ぐ。項翼たちの加勢が入るまで持ち堪える為にも。
「決して深追いはするなよ。あくまでも任務は戦線の死守だ」
それだけに徹していれば良い。
たとえ同胞がやられようと、情緒を乱さず、隊列を崩さず、冷静に耐え忍ぶことなど平常な心を持った熟練の楚兵であれば容易いことだ。……そう。平常な心を持っていれば。
問題は隊が、主を亡くし居場所を失った兵士たちの寄せ集めであること。そして自身、彼らの心を御する威徳を持ち合わせていないことだ。それもそのはず。楚軍のために人身御供として祭り上げられた齢十五の少女に過ぎないのだから。
「様! 左方最前線の騎馬小隊五十が敵兵に囲まれ全滅したとの報告が!」
懸念は徐々に現実味を帯びてゆく。二刻ほどが経過した頃、伝令兵がの元へやってきてそう告げた。千人隊における五十は大きな損害だ。それも全て騎兵であるというのも。麾下の士気を損なわないためにも負の感情を露わにするべきではないと、は焦りをひた隠しにしつつ、言葉を返す。
「深追いはするなと命じたはずだが」
「それが……」
「いや説明はいい。早急に右から兵八十を援護に回そう、突破されては困る。控えの弩隊にも騎兵として出る準備をするよう伝えよ」
「ハ!」
伏兵を表に出すのはもう少し後の予定であったが致し方あるまい。盤上で幾度となく思考を凝らして練り上げたはずの策も、簡単に乱されてしまうのが実戦だ。あとは項翼たちがより早く到着するのを祈って待つことしかできない。
――どうか一刻でも長く持ってくれ。
祈るように遠くの戦線を見つめる。しかしの瞳に映る景色は、その祈りとは正反対の方向へと、ゆがみ、崩れてゆく。形勢はますます悪化しているようだ。
「陣形が完全に乱れている模様です」
側近の兵が酷な現実を告げる。濁流のように割り入る敵兵。いくら援軍を送ろうとも、ほころびは元には戻らない。は兜を被り、緒を固く結ぶ。
「死を覚悟した人間は脆い。致し方が無いと言ってしまえばそれまでだが。しかし隊規は守ってもらわねば困る。わたしが出よう」
「危険でございます! 景染将軍からの援軍を待ちましょう」
「あの冷酷な男が援軍など寄越すものか。都合よく使い潰されていることなど承知の上だ」
「そのようなこと……!」
「このわたしが一番よく知っている。違うか?」
の眼前に立ちはだかっていた側近の兵は押し黙る。
「易々とやられるつもりはない」
いつまでも亡霊に囚われている死にたがり共を目覚めさせるには、将たる自分が背中を見せ、士卒の心にひたすら訴えかけるしかないだろう。は天高く戟を掲げ、敵陣へ向けてまっすぐに振り下ろすと、本陣の兵を総動員して突撃を敢行した。
幾度となく突いても、斬っても、終わりは見えない。
百越の兵数は、偵察隊からの報告によると二千をゆうに超えているという。加えて援軍も続々と到着している様子だ。この数が総力を挙げて押し寄せてきたら、溜まったものではない。伏兵を隠しているように装った甲斐があってか、相手方は未だにこちらを警戒しているようである。しかし、その警戒が徐々に薄れてきていることもまた感じ取れた。
「様、これ以上は危険でございます! 一旦お下がりくださいませ!」
「構うな。目の前の敵に集中せねばやられるぞ!」
――ある程度押し返したら、弩隊を再び戻し、陣を布き直して敵兵の前進を食い止めねば。それから……。
思考が妙に冴えている。戟の調子も良い。焦燥に支配されていたの胸に、僅かばかりの余裕が生じた。
「楼車隊! 敵情を報告せよ!」
「ハ! 敵将らしき者が出てきました。まもなく加勢に入る模様です」
「承知した。こちらも景染将軍及び臨武君に報告を――」
僅かばかりの余裕は、一刹那、驕りや侮りといった感情を生み。油断に変わる。
「様ァ!」
「――!!」
悲鳴のような麾下の叫び声と共に背後を振り返ると、敵兵の白刃がすぐそこまで迫っていた。反射的に戟を防御の構えに握り直し、馬を御して相対しようとするも、雨でぬかるんだ足場に体勢は大きく崩れる。馬体からあっけなく引き剥がされた無防備な体はふわりと宙に浮く。
おわりだ。
終焉のその瞬間は、呆気無いものである。ここは瞬き一つのうちに数多の命が消えてゆく場所。ならば自分の死も、何の前触れもなく、この混沌の中に飲み込まれても何ら可笑しくはない。上官の無謀な命令に唯々諾々と従い、あたら若い命を散らしていた同輩や、この手で葬ってきた数多の敵兵と同じように。
(ごめん。今度はわたしが貴方を泣かせてしまう)
脳裏に浮かんだ友の顔。彼との約束を果たせぬことを後悔しながら、敵の刃を受け止めんと歯を食いしばった。感覚を静寂が支配する。荒れ狂っていた風が、僅かに止んだような気がした。音の無い世界で、脳裏に懐かしい記憶が次々と映し出される。
――そのときだった。
の真横を何かが掠めた。まるで彼女を一場春夢から呼び戻すかの如く。翆の羽ばたきを想起させるその衝撃に反射的に目を閉じて、それから再び瞼を持ち上げた。束の間。視界に広がる光景に小さな悲鳴を上げた。眼前まで迫っていた敵兵の右目に「矢」が突き刺さっている。
(…………? 味方に弓隊はいないはずだが、いったいどこから)
その疑問の答えはすぐに判った。敵兵たちの視線が一か所に向けられていることに気付いて、もまた釣られるようにその先を追う。遠くの高台の上、雨に霞む視界のその奥にその姿を確かに認める。
踊るように風に靡く絹のような黒髪と白皙の肌。
「まさか……!」
あれは白麗だ。見紛うはずがない。
己を襲おうとしていた敵兵の頭顱には矢が深く刺さっており、既に絶命していた。たった一矢で的確に仕留めるその卓越した弓の腕に、は言葉を失う。
そうこうしているうちに白麗が朱に塗られた弓に再び矢をつがえて、すっと引き絞ったものだから、恐れおののいた敵兵らはその陣を乱した。更に遠くから項翼率いる別動隊が近づいてくるのが見えると、百越の軍勢は蜘蛛の子のように四散する。
不利だと思われた戦況は一転、盤ごとひっくり返されたのだ。
落馬しただったが幸いにも大きな怪我は無かった。安否を案じた麾下や駆けつけた項翼らにもみくちゃにされながらも軍陣を立て直し、防御が破れた敵への攻撃命令を待っていると、麾下の一人が話しかけてきた。
「何はともあれ、ご無事で何よりでございます」
「迷惑を掛けた」
「いえ。……ところであの弓使いは?」
「白麗三百将。臨武君の義弟だ」
「今回は助かったから良いものを、一寸でもぶれていれば同士討ちだった。馬鹿げたことをする」
麾下は忌々しそうに吐き捨てる。確かに彼の言う通り、一歩間違えれば隊は将を失って壊滅し、前線は侵されてしまっていたように思える。しかしの胸にはとある確信があった。
「それは違う。きっと狙って当てたのだろう」
「え?」
白麗という男があのような博打をするものか。冷静で折り目正しい彼のことだ。自分の腕を過信し、あのような暴挙に出て、それが偶然にも敵兵を射抜いたなどということは有り得まい。
また麾下の言葉を否定する理由はもう一つあった。は死が眼前まで迫っていたその間際、冴え渡った感覚で一つの事実を拾っていた。僅かに、あれだけ荒れ狂っていた風がパタリと止んだ時があったのだ。その凪いだ瞬間を見計らい、白麗は敵兵に当たると確信した矢を放った。
矢羽が空気を裂く音。冷たく、鋭く。冬の白んだ日を受けてひかめく氷柱、或いは美しい翆の羽搏きを連想させるような澄んだ音。その卓越した弓の腕を持ちながら驕ることなく、あの敵兵を打ち抜いて見せてからも僅かな喜色すら浮かべず、静かに弓を引き絞っていた彼の顔。あの凛と輝く黒曜石のような眼は、を守るべく、じっと時機を待っていた。そのような白麗の挙措は次第に切なく儚い感情となって心に巣食い、それから寝ても覚めてもついぞ離れてゆくことはなかった。