浮世夢の如し

  寤寐思服・附記

 深い眠りの淵に落ちた、その呼吸は、耳を欹てなければ聞こえない。凪いだ湖のように穏やかなものだ。
 これはごくありふれた逢瀬に違いなかった。君が恐れる不義や背徳は、俗悪なこの世には掃いて捨てるほど転がっている。
 財や名声、欲望に囚われた人の心はたとえようもなく醜穢で。けれども、腐った草木が蛍となるように、汚わいのなかに清廉さは生まれる。それは暗闇の中で孤独にかがやく。己に殉じ、拙くも誠実に生きようとする君の姿は、だからこそ美しいのだと思う。
 出逢ったころから変わらない、きわやかな光。無辜の童女を救ったあの侠気の本質はきっと、心に根付いたまま幾年が経った今も薄らぐことはない。多少世故に長けたところで君自身にさえ曲げられぬ性情、それが個性というもの、ひいては運命を決めるもの。尊い天性の美質だ。それが、俺にどれほど甚深な桎梏を課したのか。如何様に心を巣食い、ときにその先の生に意味すら見出せぬと錯覚させるほどの喪失感を、慢心を悟らせるまでの真摯さを、のどやかな波の上を蕩揺するようなやすらぎを、瑞々しい熾烈さを以て刻み込んだのか。
 あどけない顔で眠る君はきっと知らないし、これから先も知る必要はないと思っている。
 ただ、昔日の約束を履行しつづけたその果てに待ち受けていたものが、君ばかりが独りで苦しみを抱える羽目になる未来であることは、断じて、許されない。

 桜桃のような口唇を、そっと伏せられたまつ毛を、暗がりの中でぼんやりと眺めやる。柔らかな夜具に包まれた華奢な身体は、中華横断の過酷な長旅を経たばかりで、きっとくたくたに疲れ果てていただろう。それでも赦しをくれたとき、己が手が、否全身が、ひどく打ち震えた。肉体が慄くまでの悦びは、ある種、戦場で千兵の将を討ち、その首級を高々と掲げた時にしか得られぬものだとあのときまで思っていた。
 二人の形に正解はあったのだろうか。どうすれば君は傷つかぬまま平穏に生きてゆけたのだろうか。その答えが存在するとして、けれども原理的に乗り越えられぬ障壁の先にある一意性を伴ったものだとして、俺はそれを受け入れることができたのだろうか。明けきらぬ夜の中で、幾度となく自身を質す。

 周りには少なからず、純に君の幸せを願う者がいて、彼らに君を守ってくれと言えば、俺の立場ゆえに為し得なかっこともできただろう。
 もしも俺以外の信が置ける人物から求婚を受けたのなら、君は迷いながらも諾したのだろうか。そう考えるにつけ、すぐさま断ち切って遠くへ追いやった。夢を追う君の邪魔立てをすべきではない、というのはあくまで表向きの理由であって。本当は、きっと許せなかっただけだ。彼女を救うべく手を伸べた自分が、他の誰かにその役割を押し付けて逃げ、あまつさえその膳立てをするなど。

 そっと部屋を抜け出すと、微醺を帯びていた頭が僅かに冴えた。空は遠い山々の稜線と、藍色の空との境界を確然と映し出している。
 晩夏の朝靄漂う池汀には、遅い蓮がひとつ、その蕾を開こうとしていた。迷いながらも、しかし堂々と。何者にも手を加えられずとも強く咲く、泥臭くも高潔なその姿を、どことなく君に重ねて見た。
 そのまま湯殿に向かうか、或いは厨房に寄って水でも貰おうか、暫し逡巡し、結局は何もしないまますぐ部屋に戻った。

 寝相は寸分たりとも変わっていなかった。きっと目が覚めたら、君は昨晩のことを噯にも出さずに、ここから去ろうとする。朝を告げる鶏鳴を蒼蠅の羽音だと言い張ってもまったく笑ってくれないし、月が明るいだけだと引き留めてもきっと相手にすらしてくれない。
 ただ、今だけは、その無防備な寝顔は俺だけに許されたもの。そのささやかな幸福を噛み締めながら、長い髪に縁取られた輪郭をそっと撫でる。

 陶器のように眠る君は、どんな夢を見ているのだろう。


/君は夏の朝



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