浮世夢の如し

  寤寐思服・後編

 その便りが楽華の本営に寄せられたのは、秋の訪れを感じはじめた八月の、廿日を過ぎようとしていた頃だった。伝令から届け物を預かった陸仙は、その中に紛れていた、厚く緘された一封の書信に気付く。主君である蒙恬に宛てられたものだ。差出人は。
(――さん、か。珍しい)
 陸仙は封泥に刻まれた名を見て、そのような所感を抱いた。からこうして書信が届くなど滅多に無いことだ。というのも彼女は吏務以外のことではまるで蒙恬に関わろうとはしない質であり、僻地に長逗留するにしろ、養父とのいざこざがあったにしろ、これまで近況報告のひとつも受けたことはない。彼女が官途に就き軍師学校を離れることが多くなった今となってはその居所も掴めないことが多く、出先で偶々、或いは弟である蒙毅を介してまみえることが殆どで、それでも年を追うごとに関わりは薄くなってゆくばかりであると、かつて蒙恬がぼやいていたことを思い出す。
 手元の簡に目を落とす。そこには軍部の尚書丞というの官位を表すものは刻まれていない。ゆえにこれは彼女が蒙恬に個人的に宛てたものだと考えられる。
 ますます珍しい。とはいえ陸仙には思い当たる節が無いわけではなかった。
 遡ること一月半ほど前。先の趙戦で殊に大きな犠牲を出した楽華に対し、が軍部の一役人として蒙家へ弔問に訪れたのだが、その夜に二人の間におそらく何か・・があった。事の委細を陸仙は知り得ていない。そろそろ日も落ちようという頃「邸の東廂房には明朝まで誰一人として通さぬように」との命を蒙恬より拝し、それから数刻と経たないうちにがその東廂房へ連れられてゆくのを、遠目に認めただけだ。
 彼女が再び姿を見せたのは朝方だった。穿った見方をすれば想像に易く、その晩、同じ命を受けて屯所で見張りをしていた兵たちの中では言わず語らずのうちに察し合ったものだが、真相はあの二人が知るのみ。

 主君は珍しく天幕の中に居た。
 花も色もない戦場では、こと飽き性な蒙恬はどこかを逍遥したり、はたまた軍市に出向いているのが常であったのだが、不思議と、ここのところは真面目に軍務をこなしていることが多く、この日も書き物をしている最中であった。
「蒙恬様」
「んー?」
 相も変わらず、間延びした声が返ってくる。
さんから、お届け物です」
 蒙恬は陸仙の方に目を遣ることはなく、硯に磨った墨を、筆の先に含ませながら問うた。
「珍しいね。内容は?」
 陸仙は驚き固まった。どこぞの誰とも知れぬ姫からの一方的な付文ならばまだしも、差出人はだ。他聞に憚る話では彼女にも申し訳ないと、件の夜のこともあり気を回そうとする陸仙をよそに、蒙恬はこともなげな様子で。
「開けて良いよ。誰かに見られて困るようなことを彼女は書かないだろうし」
 きっぱりとそう言い切った。
 これで封を開けたら艶書だった、なんてことがあったらどうするのかと困惑しながらも、陸仙は主命のままに泥を割って括り紐を解く。
 そこにはこう記されていた。

 月立頃 到河南 会面大人見流謫
 河南気色 雖益々繁華 我心惝怳
 赤落叶流 眺其三川而 無所用心
 惆悵悠悠 此惑到何許

 心配は杞憂であった。ただ彼女自身の近況を綴った、便りのようである。

 大人というのは父またはそれと同視される人物への敬称で、ここでは河南と流謫という言葉から呂不韋であると想像がつく。かつて王権簒奪の罪で遠地へ追いやられた男の名であるからして、は私信であっても直接的な表現を避けている。
 河水・洛水・伊水の走る河南のあたりを三川ともいい、が敢えてこの呼称を用いたのは直前の「赤落叶流」の情景を想起させるための掛詞、といったところだろう。三川の地が主君の亡祖父・蒙驁にゆかりのある地であることも、彼女は知っているはずだ。

 以上の考察を踏まえて陸仙はの言葉をこう意訳した。

 秋八月のはじめに、河南に到着し、流謫された呂不韋様にお会いしました。
 かつて東周の都として栄えたこの地は、ますます栄華を極めていて。けれども、わたしはその賑やかしさが不安でたまらないのです。
 赤い落ち葉が流れゆく、三川のほとりでその水面を眺めながら、今はただ憂いに沈むばかりです。この心の迷いは、いったいどこに辿り着くのでしょうか。

 記憶の中にあるの澄んだ声が、言を紡ぐ。
 河南に戻り呂不韋と再会した彼女の葛藤が垣間見えるような文だ。遠地へ流された呂不韋が質実さを嫌い、贅を尽くすその元来の身上をまったく変えようとせずにいることから、王政はかの人物が再び反乱を企てようとしていることを危惧している。刑罰は陰の気が深まる時季(九月からの三か月)に執行されるのが通例であるから、八月を迎え、彼女が悲観的になっているのも無理はない。
 は呂不韋との縁を断てど、かつて受けたその温情までは完全に捨てきれなかった。客死を覚悟して河南に渡った時点でそうだったのだろうと、陸仙は推察していた。
 端正な字が連なるそれを茫と眺めていると、蒙恬が筆を置いて立ち上がり、眼前までやってきた。こころなしか、辺りの雰囲気が一段と凍てついたようであった。
「陸仙。それ貸して」
「? はい」
 言われるがまま、陸仙は差し出された手に書信を託す。
 蒙恬は再び牀に腰を下ろすと、からの便りをまじまじと見た。何の変哲もないような文章を眺める琥珀の瞳が、突如としてはっと揺れ動いたことに、陸仙は気づかない。
「……うん。分かったよ、
 それから慈しむような、しかしこころなしか寂しそうな声音で、蒙恬は彼女の名を呼んだ。
 陸仙は訳も分からず首を傾げる。
「何かありましたか? 特に変なことは書かれていなかったような」
「内緒。あと詮索禁止」
 それきり。彼女の書信はあっという間に再び固く綴じられて行李の隅の方に差し込まれた。興味が無いといえば嘘になるが、陸仙はそれ以上追求するなと言われれば直に従う男だ。分かりましたと言い残して、彼は主のもとから罷り去った。

 ―― ――。
 独り天幕に佇んでいた蒙恬は、おもむろに宙へと目を向けた。河南はおおよそ咸陽と同じような気候か、少し暖かいくらいか。彼女が書信をしたためたのは、未だ夏の名残が留まる時季であったはずだが。
 帳を払い、外を見遣った。涼しげな風に乗ってどこからか金木犀の馥郁たる香気が運ばれてくる。
 腰を上げて外まで足を伸ばし、遠く聳える山々を見回した。様々な樹木が立ち並んでいるが、黄や橙に染まる葉はあれどやはり紅葉の時期にはまだ早い。況してや今から二十日以上も前の、八月朔日の河南で、紅い葉が川に流れるほどに散り落ちているとはどうも考え難いのである。
 月立頃というらしからぬ回りくどい表現で始まっている文頭から、蒙恬はこの書信に暗々裏に別な意味が込められていることを密やかに察していた。杓子定規な彼女の、文の癖ではないのだ。この違和感を瞬時に拾える者はそうそういまい。
「…… ……。俺はまた君を苦しめてしまったのかな」
 呟いた声は人知れず、凋落の季節に吹く風にさらわれていった。

(了)

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