※モブと絡む描写有り
新たな六大将軍を据え、中華統一に向けて数多の戦を乗り越えてゆくはずだった秦軍の前途は、趙の宰相李牧の手によってまさに断たれようとしていた。ここ二年での宜安攻め、そして番吾の戦いと連敗を喫した事実。惨憺たる犠牲の上に、得るものは何も無かったというその虚脱感に沈みゆく文武官ら。それらを立て直すべく昌平君が宣布した「三つの柱」の委細が蒙恬に告げられたのは、半月ほど前のことだ。
楽華の軍容は五万を超え、二人の副官は自身と並び立つ要職へと就いた。そして今、一同は再び幾年と水火の苦しみを味わった対趙前線へと歩みを進めていた。目指すは黄都という城邑で、鄴と橑陽の中間地点にあたる。その二城から北東、同程度の距離内に武安という城もある。そこは、かつては六将白起の封地であった場所。そして今は、李牧がその名を称されている。
李信や王賁といった朋輩らもそれぞれ重大な任を与えられている手前、蒙恬には決して自らの職責を滞らせてはならないという精神的な重圧が少なからずあった。それが他でもない昌平君が打ち出した唯一策である事実も、輪をかけるようにのしかかっていた。麾下に将軍としての本分を示さねばならない立場であるがゆえに、青き時分のような奔放な振る舞いをするわけにもいかず、ほとほと息が詰まっていた折。函谷関に差し掛かり、小休止を挟んでいた楽華軍に早馬が届けられた。昌平君からの新たな下命であった。
まずは黄都への行軍途中で河南に滞在し、兵力と輜重の補給を十分に行うようにと。そして蒙恬「個人」はその際に洛邑から東に三十里ほど離れた偃師という城邑に赴き、そこで執り行われる祝賀の催しに秦の修好使節として参列するようにという謎めいた辞令が記されていた。
(気乗りしないけど、まあ、気分転換だと思えばいいか。)
本音を言えば華々しき旧都洛邑で諸々を部下に任せつつ悠々と暇を過ごせれば良かったのだが、他ならぬ恩師の頼みとあれば無碍にはできない。まあおおよそ、中央の文官らは来夏までの戸籍づくりに総力を挙げている最中であるから、こういった仕事に割く手間さえも惜しいのであろう。肝心な偃師の任に関しての言及は殆ど無いが、使節として礼儀をわきまえ品位のある振る舞いをすればそれで良いという言外の意図だ。華胄家世に生まれた者にとっては至極簡単なことである。
洛邑に到着するなり軍需品の調達などの指揮を陸仙と愛閃へと割り振ると、蒙恬は少数の護衛を連れて偃師へと車を走らせた。洛邑を南北から挟み込むように流れる伊水と洛水、二つの支流が合わさる場所だ。
さほど大きな城邑ではなかったが、幾年と辺土の戦地に身を置いていた蒙恬からしてみれば、悪くはない土地だった。道中はかつての氾濫の名残であるのか無数の池沼が形成されているものの、城邑周辺は数年前の溝渠事業で水路が整備されていた。封主によっては土地の維持管理に労力を要することを厭む者もいるのだが、長らく呂不韋が管理を任されていたがゆえに、このような治水対策は抜かりなく行われていたのであろう。
偃師に到着すると邑の父老が自ら出迎えてくれるという篤い歓待があった。蒙恬は一度車から降り、礼を述べると、別な案内役の者が一歩前に出てゆかしく頭を下げながらこう言った。
「軍部尚書丞殿は既に客舎でお待ちです」
「え?」
何の前触れもなく耳に入ってきたその官職名に蒙恬は素っ頓狂な声を上げた。己の知る限り、その官位に叙されている者は一人しかいないはずだ。否、もしかすると彼女に会っていないここ数年の間に、新たに任じられた者がいるのかもしれないが。そのような可能性を胸に留めつつも淡い期待がじんわりと疼いた。
わずかに浮き立つ足取りで案内された殿宇に足を踏み入れると、花窓から差し込む光に塗りつぶされた女の影がひとつ。こちらに気づいた彼女がそっと首を傾げれば、結い上げられた髪に挿された笄の上品な金細工がゆらゆらと揺れる。薄明かりに冴えた白肌に辰砂の唇、そのあでやかな美粧をも我が物とする、二十も半ばを過ぎたであろう彼女のますます磨きがかかった姿に、懐かしさと新鮮さが同時に込み上げた蒙恬は暫し言葉を失っていた。
「蒙恬将軍」
穏やかな声でそう呼びかけられた蒙恬は、平静さを装いながら質問を投げかけた。
「。どうしてここに?」
「どうしてと言われましても、先生からご説明があったのでは?」
どうやら事の仔細を伝えられてあるらしい彼女は、眉を顰めながらそう述べる。
「いや。なんなら、どうしてここに呼ばれたのかも、これから何の祝賀会があるのかも伝えられてないんだけど」
「……。とりあえず、城まで向かいましょう」
牀に腰を下ろしていた彼女に手を伸べると、戸惑いながらもそっと握り返される。暫くぶりに触れる、彼女の指。その細さと柔らかさを、意識せずにいることなどできなかった。利き手の指の先だけがわずかに肥厚しているのは、日々筆を握る者の癖だ。ここのところは「三つの柱」のひとつである戸籍づくりという奔命に疲れているに違いなかった。彼女が幼少の砌より培ったあらゆる言語の知識は、中央の管理が行き届かぬ人煙まれな集落をひとつ残らず調査しなければならない今このとき、大いに発揮されるべきものであるからだ。
客舎を出るとふたたび車へと乗り込んだ。遠くからかすかに聞こえる鼓楽に耳を傾けながら、長閑な邑をゆったりと進む。昔はこういった再会のたびにどこかぎこちなくなったものだが、そういった思い出すらも懐かしく思えるほど、隣の彼女に初心な恥じらいはなく、それどころか妙に穏やかでいる。
「河南一帯は政情的に不安定な土地でした。かつては東周、その後は一時、東周を滅ぼした秦に併呑されましたが、何度も国境は塗り替わりました。ここからすぐ東に位置する鞏から遥か滎陽にかけての魏へと繋がる土地は、蒙驁将軍が韓から取り戻し、三川郡を置いたことでようやく強固なものとなったのです。貴方様が呼ばれたのは、そういう理由もあるのかもしれません。そこまでは先生も仰っておりませんでしたが」
「なるほどねー。たしかにみんな手厚く出迎えてくれたなあとは思ったけど、納得」
「話を戻しますと、ここ偃師も御多分に漏れず翻弄された土地でもありました。相変わらず韓や魏の国境は近く、さらには近年、趙との戦のために兵も馬も食料も消耗しておりましたから。貴方様の前で言葉にするのは憚られますが、やはり趙に苦敗を喫した事実は人々の不安を煽るにはあまりにも大きなものでして……と、すみません。そのような仕儀に立ち至ったことを責めたいわけではなく」
「分かってるから、大丈夫。続けて」
「はい。それで、来夏までに完了させねばならない秦全土の戸籍作成をする上で、中央への不信感というものは障壁であり、なるべく払拭せねばならないということになったのです。そういった理由があって、偃師一帯にさらなる盤石化を図るべく支援者を招致することが決定いたしまして」
「支援者?」
はその問いかけに言葉を返さぬまま、窓の外に遣っていた視線を蒙恬へと差し向けた。何かを言い淀んでいるように思えたが、それ以上詮索されないようだと知ると、小さく安堵の息を洩らしていた。
「……。ところで、楽華の皆様はどちらに?」
「洛邑に駐屯してる。ここに来たのは俺だけ」
「さようでございますか。皆さまにもご挨拶をしたかったのですが」
「気にしなくていいよ」
「ですが陸仙さんも将軍に昇格されたとのことですから、せめて一言でもお祝いを申し上げたいですし」
「俺から伝えておくから大丈夫。陸仙も君に無理はさせたくはないだろうから」
「それと蒙武将軍のもとから新しく迎えられたという副官の……ええと、お名前は確か」
「あー。そっちも気にしないで。ていうかむしろ会わない方が良いかもしれない」
腕は確かであるのだが、こと蒙恬への傾倒が強いゆえに目上の人間にも礼を失した発言をしかねない麾下である。鉢合わせてしまったときには、生真面目なは彼のやや偏った思想に基づいた発言を額面通り受け取って、少なからず悲しんでしまうに違いない。
「? どうしてですか」
「なんでも」
「理由になっておりませんが。……あ、そうです、それで思い出しました。わたし、蒙恬に大事なお話をしたかったのですが、」
がそう口にしたところで、御者が「御歓談中恐れ入りますが、到着いたしました」と、おずおずと声を掛けてきた。開かれた扉から車内に入り込んだ空気が、彼女の芬々たる花のような香気を徐々に逃がしてゆく。会話は自然に途切れ、そのままと共に城の中へとゆっくりと足を踏み入れる。すると一陣の風に煽られたがごとく、人々の視線がこちらへと向けられた。はじめは武官とは思えぬほど見好い蒙恬へ、それから隣に立つへと。確か華やかな綺羅に身を包んだ今日の彼女は美しいが、それにしてもこの妙な違和感は何かと蒙恬が考えを巡らせたとき。眼前に一人の男が現れた。彼女が小さくあっと声を洩らす。
「。そちらは?」
風韻を漂わせるその容貌。落ち着いた低い声と、作為を感じさせない仄かな色気が、波乱含みの幕開けを静かに予感させた。静かに彼女の肩を抱き、あまつさえ公然の場で敬称もつけずに馴れ馴れしく名を呼ぶその男。蒙恬の中でひとつの結論が一閃した。偃師一帯にさらなる盤石化を図るべく招致された支援者。そこで彼女が彼の名を言い淀んでいた理由も、たなごころを指すように明らかであった。
「秦国将軍、蒙恬と申します」
名乗りをすると、男は些かの裏も無いような柔らかな笑みを浮かべて言った。
「私は茅焦。斉の南で商いをしている者だ」
秦の元客卿。鄴攻略の立役者である豪商。斉南部の義勇軍司令。そしての元夫。男、茅焦には語るべき経歴が多くあるはずだが、彼は敢えて端的に自身のことを述べた。その嫌みのなさすら、こちらの心を操ろうとする深いたくらみを感じさせてしまう。或いは茅焦にはそのような狙いなど無いのかもしれないが、如何にせよかつてに血道を上げていた身でありながら不気味なほど潔白であるのだ。やりにくい相手だ、と蒙恬は思った。
茅焦はかつて洛邑まで商船を航行させ商売をしていたが、今は伊洛の合流地点、つまりここ周辺を西限としているという。斉王政と折り合いが悪いという彼は独自の軍事力を保有しており、それが此度、偃師一帯での貿易に関して賦税を緩和することを条件に、秦へ支援協力をするという誓盟が為された。茅焦は安定した商売の土壌を、秦は近国に対する抑止力を得ることができた、という祝賀の催しというのが種明かしであるらしい。がこの場に遣わされた理由、そして官吏の礼服にしては綺麗に着飾っているその意を汲めぬわけではなかった。彼女が相変わらず身に着けてくれている、かつて蒙恬が贈った翡翠の玉笛だけが、なんとか己の精神の安寧を繋ぎ留めていた。
「に貴殿のような友人がいて嬉しく思う。もはや私は何も申し上げられる立場ではないが、十余年前、貴殿が彼女の助けとなってくれたことを心より感謝している」
茅焦はそう述べると蒙恬に対し慇懃に手を包んだ。それから踵を返し、去ってゆく背中を、が弾かれたように追いかけようとして。
「蒙恬、またあとで。長旅でお疲れでしょうから、ゆっくりお体を休めてください」
あわててこちらを気遣う言葉をかけた彼女に、なんとも居た堪れない気持ちになったのは言うまでもない。連れ立った供は最低限。気心の知れた麾下は洛邑に置いてきた。この胸中を吐露する場が無いというのは、案外寂しいものだ。
茅焦の接待で忙しかったのであろうか、あれからと言葉を交わすこともなく祝賀の宴はお開きになった。深更の客舎へと戻り、ぽつねんと用意されていた寝衣へ着替える。修好使節として参加した手前、安易に気散じに興ずるわけにもいかず、間遠になっていた彼女との再会も思うようにいかぬまま、といった不完全燃焼ぶりで酔いもさほど回ってはいない。すべてが満ち足りぬまま、朦朧とした部屋の灯りを消して横になってほどなくして。不意に部屋を覆う帳が音もなく開かれた。
「……あの、起きてらっしゃいますか」
「どうしたの。夜這い?」
かろうじて聞き取れるほどに小さな、そして気まずそうな問いかけに、揶揄うようにそう返す。かすかな衣擦れの音に、甘美な期待がふつふつと湧き上がる己のあまりに実直な性情に自嘲的な笑みさえこぼれた。おいで、と手招きをすれば、窓からわずかに差し込む月明かりだけを頼りとして、おぼつかない足取りで彼女は榻の前までやってきた。暗闇で二人きり、それも彼女がもたらしたこの局面に心がざわめく。
「昼間にお伝えしかけた、大事なお話を」
そう切り出した彼女の言葉を受けて、馬車の中で中途半端に終わった会話のことを蒙恬はようやく思い出した。
「大事な話って?」
「申し上げにくいのですが、その」
「うん」
「……考課簿の締め切りが迫っているのですが、楽華の皆様からの提出がまだ無くて」
「え?」
「おそらくこれまで胡漸さんに全てをお任せしていたのだろうと推察して、ここ数年はわたしのほうでなんとかなるよう上申していたのですが、そろそろ建軍も終えられた頃なので、本来の決まりに則って提出していただきたいと思いまして」
この状況下で「軍部尚書丞」として仕事の話をしにきたことに拍子抜けしたものの、その生真面目さもまた彼女らしいと思えた。不用心にも単身で、男の寝所に乗り込んでおいて、こちらの滾るような情調を存分に掻き立てておきながらという女はこれなのだ。
「そんなのテキトーにやっておくから大丈夫」
「そんなの、ではありませんし、しっかりと吟味してご報告いただかねば困ります。部下の方々の評価になりますので」
「楽華が武功を上げれば解決することでしょ」
「そういう問題ではなく……」
「それよりもさ」
込み上げるいとおしさをどうにか糊塗する蒙恬のの心情などつゆ知らず、寸分も警戒心を抱かずに滔々と苦言を呈する。そしてとうとう耐えかねた蒙恬は、軽く話を遮った。
「こんな時間まで何をしてたの? 一緒にいたんでしょ?」
昔の旦那さんと、と敢えて言葉にしたのは儘ならないがゆえの、ほんの意趣返しのつもりだった。はハッとして口元を歪めてから「貴方様には関係の無いことでしょう」と、ばつが悪そうに絞り出す。その隔意を置かれたようなささやかな抵抗が、どうも昼間の茅焦を追いかけた彼女の姿を呼び起こさせて。それゆえに理性の箍が一瞬にしてはじけ飛んだ。
「や、」
蒙恬は制止の声を無視し、彼女の頼りない腕をぐっと引き込んで榻へと組み敷いた。柔らかな肉体の感触は、忘れ得ぬ昔日の記憶をまざまざと呼び起こさせる。酒匂まじりの甘ったるい吐息が漏れ出る唇に、吸い付かんとばかりに顔を近づければ、は一瞬、小さな喘ぎを洩らした。だがそれきり、あらがう気配はなく。
「……」
それどころか己に向けられた激情を従容として受け入れるがごとく、脱力して双眸を閉じ、好きにしてくれと言わんばかりの雰囲気を漂わせたものだから、もはや後に引けず。まるで誘い込むようにわずかに開かれた口唇に、そっと、己のものを重ね合わせた。
「んっ、……」
穏やかな水面を揺蕩うような、或いは空を浮揚しているかのような、夢か現かすらもあやふやになるような揺曳感が、じんわりと身体を包み込む。もう何年と思い焦がれ、幾度となく渇望した幸福だった。角度を変えながらやんわりと食んでやれば、たおやかな肢体が小さく跳ねる。優しく甘い快楽に、全身が痺れんばかりに疼いた。
わずかに息を乱し、上気する彼女の頬。汗を浮かした額に張り付いた一条の髪すらもいとおしくて仕方がない。しかし、そこから先にはどうしても進むことはしなかった。数年前の、たった一度の交合のあと、彼女から送られた書信のことを蒙恬は鮮明に思い出す。あのとき、身を裂かれるような苦しみに苛まれたであろう彼女に会いに行くことすら能わず、そばで寄り添ってやれなかった後悔だけは拭えない。の輪郭を、耳を、そっと包み込むように抱き寄せ、存分に柔らかく暖かな熱を十分に堪能してから、蒙恬はそっと顔を上げて息をついた。
「ごめん、紅がよれてる」
「……大丈夫です。どうせ、この後はもう誰にも会いませんから」
指の先での口元をなぞると、彼女は掠れた声でそう答える。
「その、これまでの長旅でご無沙汰だと思ったので、わたしでよろしければ……。これ以上は、できませんが」
「変な気を回さなくていいよ、って君に仕掛けた立場で言えたことじゃないけど」
乱れた衣服を整えながら肢体を起こした彼女は、そのままゆっくりと立ち上がった。
「そろそろまじめにご結婚を考えてみてはいかがです」
「君が立候補してくれるの?」
「するわけないじゃないですか、今更」
共に生きてゆくことなどできないほどに互いを知りすぎてしまったんですから、とは付言した。甘やかな残滓が漂うこの場所に似合いの、優しい建前だ。きっと彼女の中に、自分と一緒になる選択肢などこれまで一度も無かっただろうに、と蒙恬は思った。
「これから君はどうするの?」
「偃師一帯での戸籍づくりを終えたら、考課簿の回収のために玉鳳軍のもとへ向かう予定です。茅焦様が船を貸してくださるとのことで。ちなみにどんなに激しい戦があっても毎年しっかり提出してくださいますよ」
「分かったから。うちも真面目にやるって」
とは答えたものの、いったい誰に任せるべきか。洛邑への帰途で早々に考えなければならないと思うと気が重くなった。
「は、王賁とは面識があるんだっけ」
「いえ。王賁将軍はまだ」
「ほら、あそこって楽華と違って気難しい堅物が多いからさ。予め書信でも送ってあげようか? 俺の大切な人だから丁寧にもてなすようにって」
「誤解を招く表現は控えていただきたいのですが……」
「うん。まあ、いい感じに伝えておくよ」
は遠慮がちにそう言ったが、どれだけ迷惑であろうとも書信のひとつは送っておくべきであると判じた。玉鳳の面々の排外的な気風はさておき、洛紫は目と鼻の先に魏領があり、魏と結んだ同盟期間もまもなく終わろうとしている。は斉での一件で顔が割れてしまっているから、面容を隠し護衛を厚くしたとて安心などできない。そこで玉鳳の手助けが僅かでもあれば、という蒙恬なりの配慮だった。惰弱な逃げ道は悉く自らの手で断つような、強い覚悟を持った人だ。無茶をするなと言っても聞き入れてくれる質ではないことは昔から知っている。
「では、遅い時間に失礼いたしました」
「送ろうか?」
「いえ。外に迎えを待たせておりましたので、お気持ちだけで」
「分かった。洛紫の近くは魏の斥候も潜んでいるだろうから十分用心して。同盟が結ばれている間は、弟もそっちにいるだろうから、情報は共有して、敵の動向を確認しながら行きなよ」
「はい。そういたします。蒙恬もご武運を」
流麗な揖できわめて淑やかに挨拶を述べたは、静かに部屋を去ってゆく。残されたわずかな幸福の余韻とともに、蒙恬は身を横たえた。次に彼女に会えるのはいったい何か月、何年と先のことになるだろうかと、とりとめのない未来のことをぼんやりと考えながら。
(了)